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「悟り」とは、一時的で主観的な錯覚ですか。 悟りを開いた人も、場合によっては...

tie********さん

2013/8/1713:40:35

「悟り」とは、一時的で主観的な錯覚ですか。
悟りを開いた人も、場合によっては血相を変えてビビりまくりますよね?
これができたら悟っていると言える、ということは何ですか?
また、悟っ

ている人でもこれはできない耐えられないということは何ですか?

補足「この宇宙が終わるまで私は存在し続けます」「私の感じている宇宙は、私の心が作り出したもの」
→「この宇宙」と「私の感じている宇宙」の関係を教えてください。また、どのようにしてこの宇宙観を得たのか教えてください。
「私」は不滅だと言いますが、記憶は連続していませんよね?全部が同じ「私」ですか?
catbirdttさん=大島優子=蛙=富士山=親鸞上人?

「欲しい物は既に貴方のものです」
→莫大なお金が欲しいなぁ…

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ベストアンサーに選ばれた回答

tok********さん

2013/8/1801:23:51

幻肢痛ってありますよね。ときどきTVで紹介されるヤツ。
事故か何かで手足を失った人が、
そのあるはずのない手足が痛んだり、痒くなったりして悩まされる症状。
これは、
「人は実はイメージで対象物を把握し、対象物そのものではなく、自分が作り上げた(形成した)イメージを感覚し認識している」
という実際の証拠。
このことは意外に古くから知られていて、フロイト以前に催眠術を使った実験で、
被験者の腕にコインを置き、それを真っ赤に熱で焼けたコインだと暗示をかけると見る見る火ぶくれができていった、等がそれ。

だから、カントのいう「もの自体」があってそれがきっかけとなって対象物をイメージする場合もあるでしょうし、もの自体が存在せずイメージされる場合もある。
がしかし、いずれにしても外側にあるはずの認識している対象物は、
自分が自分で形成したイメージに他ならない、ということです。
そうすると、今目の前にあるはずの〝現実〟というものすべてが、
本当に自分の目に映っている姿なのかどうか怪しくなってくる。
幻肢痛のように。

それにこの「私」自身も相当アヤシイ。
認識論はややこしいのですっ飛ばしますが、この「私」の実体性を論証するのは相当難しい。というか、不可能であり答えがないっていうのが答え。
しかしながら、どのように「私」が成立するかは判る。
それは、
①五つの感覚器官が何かに接触して、
②五官からの感覚情報があったとき、
③言語化される以前の好悪の想念がふっと生じ、
④応じて感情・欲求が起動し、
⑤それらをひっくるめて認識するために認識作用が働いて、対象を識別する。

その対象を識別する作用が〈わたし〉の正体だ。
だから、接触による感覚情報がなければ〈わたし〉は形成されない。
つまり、感受~があるとき〈わたし〉は存在し、
感受~がないとき〈わたし〉は存在していない、ということだ。

幻肢痛の人は、側頭葉あたりの過去にあった手足の記憶という縁に触発されて、
無いはずの手足を、知らずイメージして痛みを再び感じる。
たとえ感受信号があったとしても、
対応する想念を惹起させなければ、好悪の感情・欲求は起動せず、
起動しないのだから認識作用も働かず、
したがって本来形成されるべき〈わたし〉も形成されない。

(すでに長すぎるのですっ飛ばしますが)
ブッダの瞑想の内、他と訣別した内容が「滅想受定」といわれるもので、
文字通り、想念と感受作用を滅する瞑想法である。
想念と感受作用を完全に制御している修行者は、
どんな接触があったとしても本能的に反応することなど一切なく、
瞬時にその情報を捨断し切り替えてしまう。
ブッダの瞑想法の訓練をした修行者らは、
そういう脳の働きに神経回路のソフトをアップグレードしてしまった、ということだ。
その働きこそ、智慧と名付ける。(智とは理知の思惟の働きで、慧とは理知の働きによって理解された縁起および四聖諦という、ブッダの道理に基づく思惟の働き。これらは訓練により瞬時になされるようになり、直覚智とも呼ばれる)

したがって、ブッダの〝悟り〟限定すれば、
「血相を変えてビビりまく」ることは一切ない、ということなのです。
またついでにいえば、想念と感受作用を自在にコントロールするということは、
自由に対象物を自分の意志のままに、
自在に映し出し、作り出すことが出来る!ということでもあるので、アリマス…


※長すぎるんで、もうすでに呆れられているも知れませんが^^;、
下記URL、私見回答でもっと長い!!のですが(5000文字!?近いデスw)
いちおう参考に載せておきます。
ニルヴァーナ、悟りの概念については後半にありますデスw
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411184257...

質問した人からのコメント

2013/8/23 22:36:32

抱きしめる みなさん、回答ありがとうございました。すべての回答、リンク先まで含め、興味深く読ませていただきました。

(ただ、悟っている人にのみできて、それ以外の人には決してできないことを具体的に知りたいという思いを満たす回答はありませんでした!)

ベストアンサー以外の回答

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土山仁士さん

編集あり2013/8/2108:57:05

Q1: 「悟り」とは、一時的で主観的な錯覚ですか。
A1:悟りとは、永久の、客観的な、ホリスティック・ビューで見極めた本質です。

Q2: 悟りを開いた人も、場合によっては血相を変えてビビりまくりますよね?
A2: 悟りを開いた人は精神的には動じませんが(破壊的感情が一瞬生じても、
瞬間的に穏やかな心に戻せます)、物質的には困窮することもあり得ます。

Q3: これができたら悟っていると言える、ということは何ですか?
A3: 究極の真理である相互依存の智慧を身に付け、心の仕組みを理解し、
意識が理性を通して感情をコントロールすることにより、慈悲心で満ち
溢れ、穏やかな心を維持できることです。

Q4: 悟っている人でもこれはできない耐えられないということは何ですか?
A4: 悪行を積んで他を害し、完全なる仏の境地(苦しみの源を根絶した
状態)への道を踏み外すことはできません。具体的には、騙し、いじめ、
搾取などです。

補足 「この宇宙が終わるまで私は存在し続けます」「私の感じている宇宙は、
私の心が作り出したもの」
Q5: 「この宇宙」と「私の感じている宇宙」の関係を教えてください。
A5: 「この宇宙」とは物理的な世界を意味し、「私の感じている宇宙」とは自分
の心(執着や怒り)が精神投影によって創り出した妄想・錯覚の世界を意味
します。

Q6: どのようにしてこの宇宙観を得たのか教えてください。
A6: 同じ現象を見ても、心の状態が異なると見え方が異なることに気付き、
心の仕組みを解明しました。具体的には、執着は肯定の錯覚を、怒りは
否定の錯覚を引き起こしますが、何と認識の90%は錯覚であると指摘する
精神科医もいます。

Q7: 「私」は不滅だと言いますが、記憶は連続していませんよね?
全部が同じ「私」ですか?
A7: 不滅の私とは意識のことです。肉体や脳(心)は死と同時に腐敗が始ま
り消滅しますが、意識は死にません。生存時の記憶は脳の海馬に蓄積
されており、死亡時に時空連続体である意識へ書き換えられますので、
意識レベルでは、記憶は連続しています。従って、肉体と脳(心)は別の私
ですが、意識は同じ私です。

Q8: 「欲しい物は既に貴方のものです」→莫大なお金が欲しいなぁ…
A8: 悟りを開くと心の平和という精神価値は得られますが、お金や権力や
地位や名誉などの物質価値(経済的価値)には直結しません。(長期的に
見ると間接的に物質価値にもつながりますが)

2013/8/2010:17:43

「悟り」は、主観的でも錯覚でもありません。
むしろ、通常の認識こそが主観的であり、錯覚なのです。
私たち人間は、主観的な錯覚を共有することによって、人類だけの現実を作り出しているのです(他の動物は、人間の現実を見ることはできないのです)。

「悟り」とは宇宙の真のありようを直観することです。
直観とは、認識とはまったく違いますし、ただ単に「見ること」とも違います。
私たちにとって、日常的な「見ること」というのは、認識(観念的に位置づけること)が前提になっており、対象を見ながらも「観念的に位置づけない」ということであるに過ぎません。
ところが直観においては、(観念的に)位置づける主体も、(観念的に)位置づけるスペースも完全に消えています。
なぜなら直観においては、実在するものが直観するのであり、実在するものしか直観できないからです。
そして実在するものとは、宇宙そのものだけです。
私も、私自身が宇宙である限りにおいて実在するのであり、したがって私が直観するということは、宇宙が直観しているということなのです。
宇宙である私が直観するとき、私の中の宇宙ではないもの(つまり実在しないもの=自我)は消えています。

「悟り」とは一種のトランス体験であり(なぜなら自我が消えるからです)、その意味では一時的です。
体験の間、その人は宇宙であり、宇宙の真のありよう(つまり自分自身のありよう)を悟っていますが、体験が終われば再び自我を取り戻し、それとともに自分が悟った中身が分からなくなります。
なぜなら、認識であれば認識の内容を観念的に保持できるのですが、「悟り」は直観であり、直観は保持できないからです。
従って、悟りを得た人とそうでない人にそれほど違いがあるわけではありません。
悟りを得た人も普通に「血相を変えてビビりまくります」。

ちなみに、宇宙は終わりません。なぜなら、宇宙は無常であり、そこでは始まったものは何もないからです。
宇宙としての私は無常であり、従って宇宙としての私は自己同一的な私ではありません。
宇宙としての私は無常であるが故に不滅です。なぜなら滅するような何ものも生まれてはいないからです。
しかし私は観念的・社会的なこの人格と同化・一体化することで同一的な自我を(観念的に)生み出しました。
だからこそ、この自我は消滅するのです。自我は実在ではなく、自己同一性を持つが故に消滅するのです。

utu********さん

2013/8/2005:56:40

悟りとは神とは何か?人間が生きる意義とは何かについて知り、自らを高めていく中で得られる精神的糧をいいます

詳しくは以下の知恵ノートをご覧下さい 貴方様が生きる意味 人間が楽しく充実した人生を送るためにどう生きるべきか?について記載してあります

貴方様の幸せな人生を作っていく参考にしてください


http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n7571

何か疑問があればご質問下さい

編集あり2013/8/2302:00:58

>「悟り」とは、一時的で主観的な錯覚ですか。

悟りを開いても、怠ければ、開いていない状態に戻ってしまいます。
厳密には戻らないのですが、戻ってしまう、と言っておきましょう。

>悟りを開いた人も、場合によっては血相を変えてビビりまくりますよね?

はい。悟りを開いても、戦場に立てば、ただの人です。

>これができたら悟っていると言える、ということは何ですか?

そんなものは、ないです。
逆に、それが分からないようなら悟っていない、ということはありますが。
だから、他人が悟りを開いたかどうかの見極めは非常に難しいのです。

>悟っている人でもこれはできない耐えられないということは何ですか?

肉体的な苦痛。拷問には耐えられません。
嫌いな食べ物が好きになるわけでもありません。

【補足について】
取り敢えず、宇宙云々は忘れましょう。話がややこしくなります。

【追記】
悟りは一時的でもないし、永久でもないです。

「これができたら悟っている」という発想は捨てたほうがいいです。

catbirdさん

編集あり2013/8/1808:42:23

悟るとは、何を悟ることなのでしょうか。悟ると、全ての苦しみから逃れることが出来ます。人間には、どうしても逃れることの出来ない苦しみが三つあります。一つ目は病の苦しみ、二つ目は老いの苦しみ、三つ目は死の苦しみです。
これらの苦しみから逃れるには、宇宙の仕組み全てを悟ることが必要でしょうか。宇宙の仕組みの全てを解明すれば、人間は病を治し、老いることを止め、不死の肉体を手に入れることが出来ます。不慮の事故を、避けることも出来ます。
しかし、今の私たちが生きている間には、到底解明することは出来ません。
では、どうすれば、苦しみから逃れることが出来るのでしょうか。病・老い・死の苦しみは、自分は肉体であると考えることから起ります。肉体は必ず病気になり、老いて、死にます。苦しみから逃れる為には、人体の仕組み全てを解明しなければなりません。
しかし、人体を構成する物質は3年に1度の割合で入れ替わります。私が肉体なのであれば、3年後の私は今の私ではないこととなります。
花を見て赤いとか、やかんに触れて熱いとか感じているのが私です。本当の私は、言わば鏡の様な感受性です。
私は、肉体が送る信号を受け取り、世界や感覚・感情・思考を感じます。これが心です。心は物質と精神とのコラボレーションです。その感受性は、肉体が死んでも何ら変わらず存在し続けます。この宇宙の始まりから終りまで、何ら変わらずに存在し続けます。
生まれる前と死んだ後を比べても、何ら違いを見出すことは出来ません。人は、生まれる前の状態から生まれて来ました。死んだ後の状態からまた生まれることは、何ら不思議なことではありません。人間の脳より遥かに優れた脳が、私である感受性に信号を送るようになると、今よりも遥かに豊かな世界が心に広がります。そういう意味で、私は無限です。限界はありません。
この様に、私は感受性と言う精神であり、肉体が病に罹り老い死んでも、何ら変わらず存在し続けます。生まれることも滅っすることも無く、清らかになることも穢れることも無く、増えることも減ることもありません。
肉体は生まれ変わり続け、この宇宙が終わるまで私は存在し続けます。般若心経では、不生不滅・不垢不浄・不増不減と言います。
この様に考えれば、自分は老いることも無く、病にかかることも無く、死ぬこともありません。愛する人と別れることもありません。又お互いに生まれ出会うからです。
私の感じている宇宙は、私の心が作り出したものです。私の心の中の小さな私が、私なのではありません。心全体が私なのです。私の敵も、私の心の一部です。だから愛することが出来るのです。
欲しい物は既に貴方のものです。何故ならば、欲しいものは貴方の心が作り出した貴方の一部なのですから。 これが悟りの内容です。

追伸
ごもっともです。回答は、紙面の制約上、下記の知恵ノートを参照下さい。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n193771
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n193204
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n193185
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n193203
要約
私の感じている宇宙は、心が作り出したものです。心の外に宇宙があるか否か、私には知る術はありません。しかし、心は、外界に似せて内界を作っていると考えられます。従って、私は外界の存在を信じます。外界が「この宇宙」であり、内界が「私の感じている宇宙」です。
私達が欲しいと思っているものは、内界にあるものです。外界のものは、感じることが出来ないからです。貴方が、欲しいと思っている莫大なお金も、貴方の心の中の世界にあるお金です。心の外にあるお金は、一体どの様なものなのか全く知らないからです。ですから、莫大なお金は既に貴方のものです。自分の心の中にあるのですから。
また、記憶は、精神には蓄えられず、脳と言う物質に物質の形態として蓄えられるので、前の生の記憶を引き継ぐことはありません。

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