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エホバの証人に質問。聖霊が人格をもっているかどうかについての続き。定冠詞の有...

secular2004jpさん

2013/10/823:27:37

エホバの証人に質問。聖霊が人格をもっているかどうかについての続き。定冠詞の有無で判断しているようだがギリシャ語文法でそんなことがいえるだろうか?

ja.wikipedia.org/wiki/エホバの証人
>「聖霊」は、神の行使する目に見えない力(活動力)である。新約聖書中の「聖霊」の語について、原文のギリシャ語に定冠詞の存在が認められないものが多数あるため、人格を持つ特殊な存在ではないと解釈している。

エホバの主張はこれか。
http://biblia.milkcafe.to/45-ro-02-29.html
> 『神ご自身は霊であり,聖なる方であられ,またその忠実なみ使いである子たちも霊であり,聖なる者ですから,もし「聖霊」が人格的存在であるとすれば,その霊者をそれら他のすべての『聖なる霊』と区別し,その実体を明示する何らかの方法が当然,聖書中に収められているべきでしょう。聖霊が「神の聖霊」と呼ばれたり,同様の何らかの表現で修飾されたりしていない場合にはすべて,少なくとも聖霊という語と共に定冠詞が使われているものと考えられるでしょう。そうであれば,少なくとも“その聖霊”(THE Holy Spirit)として区別されるでしょう。ところが,それとは逆に,多くの場合,「聖霊」という表現は元のギリシャ語では定冠詞を伴わずに出ており,このことは聖霊が性格を有する者ではないことを示唆しています。』

三位一体論では、聖霊はエホバやイエスと同等のペルソナ(人格)を所有していることになっています。でも、聖書における聖霊に対する定冠詞の用法は三位一体とあまり調和していません。そこで、異なる二つの説明が誕生することになります。
定冠詞が省略されるというのは、あり得ないことではありません。ですから、ある固有名詞に対して定冠詞がいつも用いられ、まれに用いられていないのでしたら、それは省略されたものと考えることができるでしょう。しかし、神の霊については、欠落している場合が多すぎるというのが問題です。それで、聖霊を神やキリストと同等と見なすことはできないというのがエホバの証人の見解です。

そもそも聖書原典がこれだけ定冠詞なしの用法を示しているのですから、新世界訳聖書がそれに合わせた訳出をしたとしても、「聖書を改竄している」などとは言えないのではないかと私は思いました。全く原典通りなわけですし。

補足アルキビアデスはプラトンの饗宴ですね。
やっぱり定冠詞は無関係なんですね。エホバは信用できない。

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ベストアンサーに選ばれた回答

rishorusさん

編集あり2013/10/1211:39:55

> 定冠詞の有無で判断しているようだがギリシャ語文法でそんなことがいえるだろうか?

ぶっちゃけた話、「イエス」に冠詞がつく場合があります。

ヨハネ 10:34
απεκριθη αυτοις <ο> ιησους
"<The> Jesus answered"

ということは、これこそ「真のイエス」ですね。冠詞のない他のイエスは一般的な他の人です。何しろ「イエス」は当時のありふれた名前でしたから!


---

面白い例がありましたので載せておきます。

ὑπολύετε, παῖδες, Ἀλκιβιάδην.
奴隷達よ、アルキビアデスの靴を脱がせよ。

πάνυ γε, εἰπεῖν <τὸν> Ἀλκιβιάδην
「実に結構」と<冠詞付き>アルキビアデスは言った。

何が違うか。冠詞のない前者は少し距離を置いた様子、日本語風に言えば「アルキビアデス殿」です。冠詞のある後者は親しみを込めた様子、日本語風に言えば「我らのアルキビアデス君」みたいな。

冠詞がない場合は一般的なものを表しますが、それだけでなく、「実在が十分に周知されているもの」にも普通は冠詞をつけません。典型的には固有名詞です。

冠詞はもともと指示代名詞「この」が短くなったものですから、個別のものに指をさして言う感じです。そして、固有名詞に冠詞をつければ上記のように「親しみ、共感、同意」の意味が出てきます。

> そもそも聖書原典がこれだけ定冠詞なしの用法を示しているのですから

そういうわけで、「だから何だ」という主張でしかありません。


---

【追記】
takashi_miyahara さん、
> 聖霊における定冠詞に関する……エホバの証人の主張ではない

| エホバの証人は異なる考え方をしており、「聖書に対する洞察」はこう述べています。
| 多くの場合,「聖霊」という表現は元のギリシャ語では定冠詞を伴わずに出ており,このことは聖霊が性格を有する者ではないことを示唆しています

あなたの言うことも、最初と最後で全く正反対になりますよね。それは何故か。

> エホバの証人の側の反論はどうなのかというと、あまりあてにならない、というのが率直な感想

こういう話になるからでしょ。あなたも私も、この点で全く同じことを言ってるにすぎません。

質問した人からのコメント

2013/10/15 09:44:25

抱きしめる ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜4件/4件中

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2013/10/1201:40:30

ギリシア語は古典ギリシア語を学んだことが
あるので、コイネーも辞書と活用表を見ながら
なら少し読める程度です。

コイネーは新約時代のギリシア語で新約聖書も
コイネーで書かれています。

ラテン語は冠詞がありませんので、読んでいても
良く意味が通らないことがあります。
というのは語順が英語などと違って、
SVOだとは決まっていません。

ギリシア語も名詞そのものが曲用するので
語順は自由ですが、定冠詞があるので、
ラテン語よりは定冠詞があるおかげで
意味が取り易いといえると思います。

ところが、問題は、フランス語の定冠詞の
ように決まった文法規則に則ってちゃんと
付いているかというと全然そんなことない
ようです。

「聖霊」以外でもギリシア語で読んでいても
何故ココに定冠詞がついているのか、
何故ついていないのか分からないことは
多いけれど、省略しただけで、
それほど意味がなかったり
するということもあります。

確認していませんが、「聖霊」については
定冠詞の有る無しは同じ箇所でさえも
写本によっても異なることもあるんじゃ
ないかと思います。

又、定冠詞ではないけれど、「しかし」「そして」
という意味の kai は福音書に頻繁に出てくる。
それをいちいち訳出していたら「そして」
だらけになってします。
日本語に訳出するに於いてはkaiはたいした
意味じゃないってことです。



読んでいて分からないところがあって、
よりギリシア語に詳しい人に尋ねたら

「それはね、福音書を書いた人の
ギリシア語が下手なんで、ヘブライ語に
引きずられた、セム語的用法というか
まあ、なまってるだけですよ」と言われて
あちゃあーと思った事があります。

結論的には、定冠詞の有無で判断できない
と思われます。

(そもそもが、この程度の事から推測して
エホバの証人に、英語に詳しい人は大勢いても、
ギリシャ語のエキスパートはそんなにいないだろう
と思いますが)

2013/10/1115:21:26

久しぶりに通りがかりです。
(リンクされている記事の運営者です)

私の記憶では、以前私はあなたにひとこと忠告をしたことがあったと思います。
その時のあなたの反応が良くなかったとも覚えています。
ほかにもあって、最近はアンチの方しかあなたの質問に答えなくなっているように思います。
以前は証人側の反応もたくさんあったはずですが。
真実を得たければ、真実を語ってくれる回答者とよりを戻す努力が必要かと思います。

この問題の場合、聖霊における定冠詞に関する三位一体論者の主張は三位一体論者の主張であってエホバの証人の主張ではないということを理解しておく必要があるでしょう。
それに対してエホバの証人が反論することで話がややこしくなっているのですが、リンクされた記事ではそういう要素は扱っていません。

簡潔に言うと、定冠詞の有無は聖霊の人格性を証明するものではないはずなんですが、三位一体論者はなにかにつけそういう主張をしている、そしてエホバの証人側はその主張の妥当性を検証するステップを素通りしてむやみに反論を述べている、ということです。

このあたりは、まず三位一体論者の論理を検証し、要点を整理し直さないときちんとわからないと思います。私のサイトでは、旧コンテンツにおいては基本的にそういう考証を行っていません。リンクされているのは旧コンテンツです。

それでエホバの証人の側の反論はどうなのかというと、あまりあてにならない、というのが率直な感想です。そもそも反論以前の段階で論点がずれているのです。

アンチの方は三位一体論にかかわる問題をとにかく証人側の問題にしようとします。そしてあなたもアンチです。
あなたにはベスアンサーを選択する権利があります。これを偏ったやりかたで行使している限り、証人側の回答者はあなたを放置し続けると思います。

mutenkaplaceさん

2013/10/1022:58:32

聖霊は注がれて始めてその人に宿り人格者として働くのです。
また、聖霊は、神(至高の神)の子イエス・キリストの花嫁としての手付金、至高の神の子としての証印でもあり、キリストの血で洗って白くした裸の肉の種で蒔かれた人が着る衣でもあります。

キリストに関心を持たれる者は先ず真理の全体に案内する聖霊を求めるべきであり、聖霊と火のバプテスマを受ける事を目指すべきと思います。

o_run_xさん

2013/10/906:50:23

原文に拘るのでしたら、もっと拘ったほうが面白いですよ。例えば…

★ ヨハネ 14:16~17
【そしてわたしは父にお願いし,[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊であり,世はそれを受けることができません。それを見ず,また知らないからです。あなた方はそれを知っています。それはあなた方のもとにとどまり,あなた方のうちにあるからです。】

話し手は「御子イエス」です。ここでイエスは聖霊のことを【別の助け手】と呼んでいます。ギリシャ語で「別」という言葉には2つの意味があり、この2つは全く意味が違います。

① 【種類が全く違う「別」】
② 【本質が同じ「別」】

イエスがここで使われているのは、②【本質が同じ】という意味です。つまり、「聖霊は考えることも感情を持つこともない非人格的なもの」であるとするなら、それはイエスとは【種類が全く違う「別」】なものになります。

しかし聖書は、聖霊はイエスと同じ本質を持っておられるということを教えています。ですから、聖書では【聖霊を悲しませてならない】ありますが、聖霊はイエスと同じ性質を持っているのですから当然悲しむこともあるわけです。


また、聖書の他の箇所では次のようにあります。
★ ローマ 8:16
【私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。】

聖霊が非人格的なものであれば、どうやって【あかし(witness)】してくださるのでしょうか?聖霊は、私たちが神の子であることのいわゆる「証人」です。だからこそ、聖霊は【あかし(witness)】してくださるのです。

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