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岡部元信という武将がいたときいてます。義元の首を返してもらわないと、本国に帰...

mam********さん

2013/10/1523:00:15

岡部元信という武将がいたときいてます。義元の首を返してもらわないと、本国に帰らないとがんばった見たいですが、その後、どんな活躍したんですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

jas********さん

2013/10/1600:42:02

岡部元信は主君・今川義元の首を奉じてすぐには駿河に戻らず、途中、三河刈谷城の水野信近を討ち取っています。

亡き主君の弔い合戦をやって引き上げたというののですが、元信は今川家臣の意地を見せたのでしょう。

でも元信は当主・今川氏真に不安を感じていたのか、武田信玄が駿河に侵攻して氏真が駿府を追われた時、武田方に降っています。

武田方先方衆となった元信ですが、1574年、武田勝頼は元信を武田の手に渡った遠江高天神城の城将にしています。

元信の活躍といえるものは、勝頼に見捨てられてしまった高天神城を死守し、武田の援軍が来ることをひたすら信じて、徳川軍の攻撃に対し必死に抵抗していたことでしょう(元信はすでに勝頼が高天神城を見捨てていたことを知らなかった)。

1581年、元信は武田の救援軍を諦め、徳川軍に降伏を申し込みも、家康はこれを受け入れず(信長が高天神城攻撃に参加している自分の家臣宛てに降伏を許すなという書状を送っていたため)、必死の抵抗をしていた籠城軍は兵糧が尽きてしまったことから、籠城不可能を悟り城の放棄を決断。元信以下の籠城軍は頭部への脱出を図るべく、1574年3月22日、徳川包囲陣を襲撃するも、元信以下多くの兵が討死しました(元信は大久保忠教の家臣に打ち取られる)。

質問した人からのコメント

2013/10/17 09:04:57

どの方の回答も勉強になりましたが、ベストアンサーに選んだ方が一番詳しかったので、この方にさせていただきました。
高天神城の城代になったんですね。勇猛果敢な岡部らしい最後でした。御冥福をお祈り申し上げます。

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end********さん

2013/10/1601:06:15

岡部元信(生年未詳~天正9年3月22日=1581年4月25日)

永禄3年(1560)の桶狭間合戦では鳴海城を守り、義元討死に後も籠城し、織田信長と講和後、義元の首を受け取って帰国、途中苅屋城を攻めるなど、多くの軍功をあげる。その後、天正元年(1573)まで消息不明であるが、おそらく永禄11年(1568)の武田信玄侵攻時に氏真と行動をともにし、相模国に移った後、甲相同盟締結にともない駿河先方衆として武田氏に仕官したものと思われ、長篠攻めの後詰めや小山城籠城戦などで活躍した。天正元年夏、「岡部惣領職」に任じられ、同年11月には勝頼から「本屋敷幷義元隠居屋敷」を与えられ、翌年には公用船・船方の諸役を免許されている。また、天正4年以降、駿河先方衆の多くを同心とする奏者の役割を果たしており、武田氏の駿河支配に於いて重要な役割を果たしていたことがうかがえる。天正8年、高天神城に城番として入り、翌9年3月22日、落城にともない討死にした。

こんなところでしょうか。

zun********さん

2013/10/1600:25:24

その後は今川氏真から偏諱を受けて「真幸」と名乗るなど、信認された
ようですが、徳川の遠江侵攻にも、武田の駿河侵攻にも主立った活躍は
聞かれません。

兄とされる正綱は対武田戦で軍をひきいているので、共にあったかも
しれません。
そして今川滅亡後は、共に武田に降ります。

しかし武田勝頼の代に、高天神城が徳川の攻勢にさらされると、元信が
城代として起用されます。
そして長期の包囲戦の後、抗戦をあきらめて城を脱出した末に討たれます。

この高天神城の戦い。武田勝頼の援軍はついに現れず、元信の配下に
なった武田の将士も不和があったという話も聞かれ、悲壮な最期だったとも
いえます。

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