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織田信長は信孝を評価していたのでしょうか?

uu7********さん

2014/2/910:05:12

織田信長は信孝を評価していたのでしょうか?

四国平定の実質総大将を命ぜられています
また、信忠との関係をご存知でしたら教えて下さい。

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2014/2/911:19:13

信長が、期待していたのは、信忠ひとりだった気がします。
信忠、信雄、五徳姫の三人が、最も寵愛したという「吉乃の方」の子です。
四国攻めには、信頼できる家臣を付けたのではなかったでしょうか。

一番愛した子は、男の子では、信忠だと思います。
能力も、高く評価していたと思います。

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zun********さん

2014/2/913:25:46

信孝は形式で、実質の総大将は丹羽だと思いますがね。
伊賀で失敗した信雄の例があるため、後見を置いて大過なく
平定を終えれば満足だったと思います。
その後は評価も高まるでしょうね。

四国への出兵に際して、信孝は三好家に養子入りする予定
だったとされます。
四国地栄えの三好氏を織田一族に取り込めますし、その配下の
讃岐水軍を吸収できれば、対毛利・九州で活用できます。

そういう意味でも、信孝を派遣する意義があります。おそらく
実際の戦闘は、丹羽と三好が両輪のようになって信孝を
支えたことと思います。

h16********さん

2014/2/912:50:52

期待していたからこその四国攻め総大将です。能力がないものを起用しません。
信忠に比べたら、まだ年齢的に戦にでる数が少なくこれからの人です。
信雄みたいに勝手なことをして失敗もしてません。
信忠に対しては兄弟といえど主君という感覚だったでしょう。本能寺の頃の織田家当主は信忠ですから

旅熊さん

編集あり2014/2/912:27:40

そろそろ世代交代を見越して信忠政権の柱になるべく期待していたと思います。
柱になるには戦で手柄をたてさせ、大きな領地をあたえるつもりだったと思います。

交易の重要性を理解していた信長が瀬戸内海航路に面する四国攻める以上、そこで功をあげたものを瀬戸内方面に領地替えし配置する計画があったと思います。
ですのでメンバーが信孝・丹羽長秀(重臣だけど領地は若狭だけ)・津田信澄(信長の甥)
あたりの将来の信忠政権の柱になりそうな者が選出された気がします。

信雄は見放していたかな。

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わをんさん

2014/2/910:11:06

四国遠征は本人の希望だったので、信長もそれほど信孝を評価していたとは思えない。
信忠は異母兄であり父から嫡子として扱われていたし、信孝本人は神戸(かんべ)家に養子入りしていた。

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