太閤検地における出羽石高について

太閤検地における出羽石高について 太閤検地時における出羽の石高は約32万石となっていますが、慶長郷帳によれば出羽は90万石近く有り太閤検地における石高と著しい数値の差があります。 『自分仕置き』の南部、伊達、最上以外は『指出御帳』の作成を求められ指出→検地→打出の手順を踏まれたとされているのですが何故こうも検地高に乖離が生じたのか御承知の方がいれば教えて下さい。

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専門家も本当の理由が判っておりません。松下志朗「近世初期の石高と領知高」(経済学研究42巻275頁(1977年))の脚注31によると、「今野真氏の御教示によれば、上杉氏の出羽国分が除かれているのではないかということであるが、後考に俊ちたい」とありますが、その詳細が論文なり本なりに活字化はされていないようです。ただ最上領と上杉領(庄内)はどっちも差出検地ですので、そこに原因があるのは間違いありません。 慶長3年高としてよく引用される数字は、「慶長三年検地目録」を出典とする『大日本租税志』の数字です。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800003/273 この元文献は現在では所在不明ですが、国立公文書館蔵『日本賦税』にほぼ同じ数字が載っています。これは肆太右衛門の蔵書を延宝9年(1681年)に写本し、徳川昭武が所有していた本を、さらに明治11年に太政官修史館が写本した本となっており、来歴の方は水戸徳川家で1680年頃まで遡れます。 一方同様に江戸時代初期まで写本の来歴が遡れる国立公文書館蔵『当代記』(『史籍雑纂』に活字化)にもほぼ同じ数字が文禄3年(1594年)の石高として書かれています http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/37 上の次の頁には「伏見普請役之帳」の数字が載っておりますが、関係ある大名の石高を抜き出すと 3万 津軽 10万 南部 61.4万 伊達 91.9万 蒲生氏郷 (5万 蒲生秀行) 5万 秋田 3万 戸沢 3万 小野寺 13万 最上 55.1万 上杉 蒲生91万9千石は国立公文書館蔵『蒲生領高目録』により文禄3年検地による村高の内訳まで判ります。 9131石6斗:津川(越後蒲原郡内小川庄) 17万7933石7斗6升:上下長井・北条・屋代(後の出羽国置賜郡) 73万1977石2斗3升:その他会津・中通り地方の諸郡合計 91万9042石5斗9升:合計 また『秋田県史 資料 古代中世編』所収の天正19年1月の太閤朱印状の写し等による秋田・由利諸領の太閤蔵入地を含めた石高は、秋田5万2240石、戸沢4万4530石、小野寺3万1600石、本堂8993石、六郷4518石、赤宇津4500石、仁賀保3715石、滝沢2800石、内越1250石、岩屋891石1斗8升となっており、『当代記』の石高が大体当時の朱印高に対応していることが判ります。ほぼ同じ数字が『日本賦税』や「慶長三年大名帳」(『続群書類従 第25輯ノ上』所収)には慶長3年の石高として載っています。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936484/65 しかしながら上杉移転後の石田光成の太閤検地で越後が39万石が45万石に改訂されたことは反映されておりませんし、蒲生91万9千石がそのまま上杉91万9千石となっています。そこで諸国・大名の石高も本来は文禄3年のもので、慶長3年高の方は大名の名前を慶長3年当時まで更新して作成された写本によるものとする説もあります(山口啓二)。 ただ、そもそも太閤検地による御前帳高とされるものも、江戸時代の慶長・正保・元禄郷帳の石高も、すべて表高の合計に過ぎないという点です。慶長郷帳高87万石とされているものは、正確には島原松平家の『御当家雑記』収録「日本国知行高之覚」によるものですが、東日本での郷帳作成には疑問が呈されており、「日本国知行高之覚」や寛永国絵図記載の石高も、東日本に関しては各所領の表高を単純に足しただけのものである可能性があります。江戸城普請のために領知高を決める必要があり、東北諸邦に対しても早急に検地をさせて表高を決定しており、その際に大幅に出羽の石高が増えたと考えられます。 そして微妙なのが旧上杉領です。「伏見普請役之帳」記載の55万1千石の内、越後39万石を除く16万1千石が北信濃4郡+佐渡(1万7030石)+庄内で、北信濃が10万石以上ですので、庄内の石高は無高~4万4千石程度となってしまいます。ただ上杉領は差出検地による表高と考えればこれでもいいのです。また江戸時代初期の慶長日本図や寛永国絵図では置賜郡と越後東蒲原がなぜか陸奥国扱いとなっており、江戸時代初期の国境が必ずしも定まっていなかったことが判ります。旧蒲生領はすべて陸奥に含めて計算していたとすれば、出羽国31万8095石-秋田諸邦合計15万4847石+最上13万石=庄内3万3248石と強引に解釈することも可能です。 なお最上領を24万石とする説は「天正年中大名帳」(下参照)により、「当代記」「日本賦税」「慶長三年大名帳」等では13万石です。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800003/131 また正保4年(1647年)の正保郷帳(佐竹家千秋文庫に写本が現存)における出羽諸郡の石高は95万1523石4斗7升6合余、実高は新田高17万2871石余を加えた112万4394石8斗9升3合に増えてますので(出羽の正保郷帳には新田高の記載があるが、全ての正保郷帳に新田高が載っているわけではない)、そもそも石高は検地や石盛次第でいくらでも変わるものです。 参考までに「近世初期北奥大名の領知高について」 http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/handle/10129/2049

ThanksImg質問者からのお礼コメント

多くの史料名を挙げられわかりやすい回答ありがとうございました。 黒田家の石高について回答が被ったときに回答の詳しさに感嘆した事がありましたが、今回も分かり易い説明をしていたがき感謝です。

お礼日時:2014/3/1 18:43