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武田勝頼が真田昌幸の上州岩櫃城に逃げていたら武田家は滅亡しなかったと思うがど...

bluekeyakiさん

2014/3/820:16:03

武田勝頼が真田昌幸の上州岩櫃城に逃げていたら武田家は滅亡しなかったと思うがどうでしょうか?

1582年、武田勝頼が滝川一益軍に敗れ山中を逃げ回ってる時に、真田昌幸は「どうか、拙者の上州岩櫃城(いわびつじょう)においで下され、1年から3年は持ちこたえてみます」と言い、勝頼が承諾すると、昌幸は単騎で岩櫃城の守りを固めるために上州に向かった。

実際に岩櫃城は峻嶮な自然を背景にした堅強な城である。
そして甲斐を制圧した滝川一益軍が無力化した落ち武者の勝頼処刑のために上州まで追撃する可能性は低く
甲州の地盤を固めるための治政を優先したと思う。
勝頼が天目山で自害した3か月後に「本能寺の変」が起きた。
もし上州岩櫃城の真田昌幸を頼って逃げてれば
旧信長家臣でのリーダーシップ争いで勝頼討伐どころではなく、
うまくいけば武田勝頼は天下統一期は温厚だった羽柴秀吉の家来になりその保護を受け
生き延びれた可能性もある。

実際は、勝頼を生け捕りにして信長に差出し命の安泰を図ろうとした小山田茂信に騙され、結局、小山田の城に向かう
ことになった。先に小山田の城の様子を見てきた家臣が
「小山田は柵を設け鉄砲・弓矢の兵を配置してます。小山田は裏切りました」との報告を受け、
勝頼は「逃げたい人間は全員逃げていい」と言って天目山で自害。
後にこのことを聞いた信長は烈火のごとく怒り「汚い奴め。成敗してくれる」と言い、小山田茂信を処刑した。

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susumudaiさん

2014/3/911:41:59

真田昌幸は勝頼を迎え入れて、一旦は織田と戦うと思います。
その後、和睦(降伏?)し、結果として勝頼は死亡(切腹?斬首?)しますが、息子の信勝は名前を変えて(おそらく諏訪氏)生き延びる事になり、結果として武田嫡流は残ると思います。

根拠:信濃は土地の豪族の力が強いので、名目上はその地の名家を使って収めさせ、それを管理した方が余分な力を使わなくて済む(滝川が真田を使って収めさせた方法)と思います。
信勝は勝頼の嫡男ですが、母は信長の養女ですから、信長にとっては孫にあたります。
さすがに武田氏では厳しいでしょうから、勝頼が名乗っていた諏訪氏を継がせ、自分の孫として諏訪あたりを収めさせ、その上に信忠がいて管理すれば、力を使わずに信濃がうまく収まる可能性が高いという事で、合理主義の信長ならやりそうな判断だと思います。

質問した人からのコメント

2014/3/11 22:47:03

>真田昌幸は勝頼を迎え入れて、一旦は織田と戦うと思います。→昌幸は卑怯なだまし討ちもしましたがさすがに主君を売るようなまねはしないと私も思います。一旦は戦い義をつくしてから勝頼に子の命の安泰を約束に切腹を求めるかもしれませんね。

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njbibidさん

2014/3/823:42:04

まず信忠は信長から勝頼の首を取るようにいわれているはず 前回の松永久秀討伐の時は茶器を手に入れる事が出来ず信長に怒られ今回は必死なのでしょう
また昌幸は武勇すぐれた兄の信綱を尊敬してました 長篠で兄が織田・徳川にやられたので織田と組むとは思えません
北条と連絡をとったのは頼る勢力が北条しかおらず御舘の乱以降の関係を修復したかったのでしょう

tetu40398さん

2014/3/822:52:03

多分ですが勝頼が昌幸の言うことを信じて岩櫃城に行ったとしたら捕えられて外交の取引材料とされていたでしょう。
実際そんなやりとりを北条と裏でしていたという話もあったりします。
真田昌幸という人間は外交や戦などの駆け引きが抜群にうまい人間だと思います。家を残すためにありとあらゆる手段を使い、裏切りなんて当たり前の人間です。
昌幸の事は好きですが、そんな人間が長年仕えてきた武田家とはいえ馬鹿正直に勝頼を城に受けれるでしょうか?

dsdafwefweswさん

編集あり2014/3/821:42:53

① 真田昌幸が小山田と同じ事をしなかったとは限らない。実際、織田と北条に連絡をとってる。
② いくら真田でもいずれは織田の大群に陥落させられる。しかも上杉は滅亡寸前、北条は親織田で後詰めが期待できない。徳川との上田城の戦いとは状況が違いすぎる。
③ 本能寺の変は状況やタイムスケジュールが違って起こらない可能性が高い。少なくとも信長と信忠が同時に討ち取られる事態になるとは思いにくい。
そもそも本能寺の変自体が武田を滅ぼした信長のちよっとした木の緩みが原因である。

>mso304emdさん
彼らと勝頼じゃ立場が違いすぎるでしょ。

あと、それと、織田は何かなんでも武田嫡流は滅ぼしましたよ。
そうじゃないと意味がありませんって・・・

mso304emdさん

2014/3/821:31:28

でも次男の子供(高家武田氏祖)や五男(仁科氏)の子供、七男(米沢武田氏祖)は逃げ切っているのだから・・・。

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benkei1141さん

2014/3/820:44:56

ちょっと、史料としては、どうかな・・・というのがあるのですが、岩櫃城(あるいは、突拍子もないのですが、上州吾妻城)に、真田昌幸は、家族の合流を許しています。

つまり、一家を挙げて死なばもろともの決意をしたと解釈できます。
物語性が強いので、全ては、信じられないのですが、真田郷から、「矢沢頼綱」などを護衛に、「山の手殿」(妻)「源三郎、源次郎」(子で、兄弟)が、父の城に、入城しようとしています。
ここに至るのも、おもしろな、逸話があるのですが、別の話で。

私感もあると思いますが、昌幸さんは、本気だったと、信じます。
小山田信茂も、領民思いで、武田を見切ったのだと思います。
小仏峠の追撃まで、しなくてもよかったと思いますが。
で、全権を許された「織田信忠」が、張り切りすぎて、けっこう、あっさり、武田の壊滅です。
信長の意向もあるかもしれませんが、信忠の先行だと思います。

偉大な先代を抱えた、健気な嫡男対決だったと思います。

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