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聖書の神には「体」が無いとの考えについて

deusprovidetさん

2014/5/402:04:52

聖書の神には「体」が無いとの考えについて

キリスト教の正統的立場の神学者や牧師には、聖書が示す神は「霊」であるから目に見える「体」は無いという人が少なくありますせんが、イエス・キリストを神であるというなら、必ずしもそうとも言えないのではないかと疑問に感じるわけです。
なぜなら「子なる神」であるキリストは、霊の体に復活して昇天し、神の右に座しておられるわけで、その霊の体というのは、「霊」とは言っても漠たるものではなく、むしろヨハネによる福音書では飲食などもして具体的に示されています。新約聖書において復活の霊体は肉体との連続性を全く否定することはできません。いわば非連続の連続とでもいいましょうか、物質的身体ではないが観念的なものではなく現実的であり、肉体と全く無関係とは言えないのです。弟子たちの前では姿が見えて触れることもできたし(ヨハネ20:27~28)、昇天時と再臨時も見られる対象です(使徒1:9~11)。
パウロによれば、「主は霊」ともいわれますが(Ⅱコリ3:17)、同時に、神の右に座しておられるというキリストは、今もなお十字架につけられてしまったままでの姿なのです(Ⅰコリ1:23他)。それは血を流した身体を含めてのことです。だから、三位一体の内で「子」であるキリストがこのような身体性を有する以上、神にはいかなる意味においても「体」が無いとは言えないのではないでしょうか?
そもそも、旧約聖書において「ヤハウェ」という固有の名がある以上、その「名」において「体」が現されているはずです。それはもちろん客観的・有形なものではあり得ません。「霊」という言葉に象徴されているのは、単に空々漠々たるものという意味ではなく、有限なる存在の認識を超えているということでしょう。哲学者のカントが「もの自体」として、人間の認識の届かない次元に置いた主旨に同じです。
私はモルモン教徒のように、人と混同して神が物質的身体を持つと考えているわけではありません。そうではありませんが、「神は霊なり」(ヨハネ4:24)という思想にこだわるあまり、いかなる意味においても聖書における「ご神体」を否定する人々に対して疑問を投げかけているわけです。
さて、クリスチャンのみなさんは、この、聖書における神の身体性という問題を、どのように考えますか?
なお、宗教カテでよく出て来る、茶化すような、悪戯回答は、どうかお控え願います。

補足arenoさんの回答は私見に近く興味深いですが、お立場はモルモン教?モルモン教では神は元々は人なので物理的身体を持つのでしょう?mutenkaさんとd_d_gさんとも部分的には一致しますが、自分は復活体の要点をⅠコリ15:35以下に置いて肉体と「不連続の連続」と解してます。watersさん、私は「霊=霊体」なんて言ってないよ。「復活体=霊的な体」を問題にしてます。kokoさん 、この質問はチャカシではないが、タメシ的面はあります。

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arenonokoeさん

編集あり2014/5/513:59:48

イエス・キリストは死なれ,そして復活され,完全な体となられました。その恵みは,時間の差,栄光の差こそあれ,全人類にもたらされます(第一コリント15:20~22)。神は,子たちに自分と同様の体と力を授けようと御子によって道をそなえられたのです。子が順調に育てば,親の能力を受け継ぐようになるのは自然界の摂理です。神(親)は,御自分の霊の子たちが,この世に生まれて,仮の肉の体で体験し,親としての経験をして,愛を学び,そして死を経て成長し,その後に,キリストと同様の永遠の体,復活体が得られるように備えられたのです。
真の神の概念は,現在のキリスト教では「見ることができず,からだも部分も欲情もなく・・・とらえつくすことができず」(ウェストミンスター信仰基準)等と表現されていますが,イスラエルの民が礼拝し,仕えてきた聖書の神,生ける真の神は,実態のない,宇宙にただよう漠然とした霊的存在の神ではなく,聴くことも,嗅ぐことも,見ることも,話すこともできない偶像のような神でもなく(詩編115:5~7),聴くことも,嗅ぐことも,見ることも,話すことも,つかむこともできる,復活されたキリストと同様の霊の性質をもつ永遠の体,すなわちパウロが説明している霊性体を有しておられる,確かな存在なのです(第一コリント15:44)。ステパノは殉教の際,そのお二方を目撃しています(使徒7:55~56)。
「百聞は一見に・・・」のとおりジョセフ・スミスは確かにその御姿を見て,その事実を知ったのです。天の神は,人にその姿を示されるときは,必ず御子と共に示されています。それが神の秩序だからです。ダビデも同様の見神をしていることがわかります(詩編110:1)。御子を通ぜずに神にまみえた人はいません。それが違訳され誤解されているのです。しかし,御子(エホバ)は,心から求める,ふさわしい者には単独で御姿を示されることがあります。彼は受肉される前は,エホバとしてイスラエルの民を直接導かれたお方でもありました。十字架につけられる前,エルサレムの街を丘から見て涙された主の想いは,単に主の伝道された3年間の想いだけではなく,そのはるか前からのエホバとして彼らを助け導いてきたことの深い愛と感慨の気持ちも込められています。

<追記>神もかつて異世界にてわれわれのごとくあり,不変の天の律法に従い,肉体の死を経験されてよみがえり,昇栄されて不死不滅の栄光化された完全な霊の体,霊性体を有することとなったお方です。我々はその神の生まれた霊の子供たちであり,神は,自分の歩まれたと同様のプロセスにて,自分の栄光を子たちに授けようとしておられるのです。この永遠の営み,繰り返しが神の業です。神々たちは想いにおいて一致しています。しかしわたしたちを生まれた,父なる神は一人です。このことは,神を知ることでもあり,奥義の部分です。説明してもなかなか信じてもらえないことです。信仰をもって,神の教えを守り,謙遜に熱心に探し尋ね求め続ける時,その人はこの真理の知識に到達し理解できるでしょう。私は,さまざまな教派を探求し,末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン)にたどり着きました。

質問した人からのコメント

2014/5/7 01:51:12

成功 やはりモルモンの方でしたね。自分とは信仰内容が180度違いますが、「真の神は,実態(実体の方が適切では?)のない,宇宙にただよう漠然とした霊的存在の神ではなく」というところだけ一致しました。あなたの言う、「なるほどそのようにも考えているんだ・・・」です(笑)。ではまた・・・。

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kawa73137さん

2014/5/514:33:25

こんにちは ご質問に関して考える材料になりそうなことをお伝えします
まず あなたも指摘されているようにもし「イエスキリストが神であるというのなら」ご指摘のような疑問が生じるのももっともなことですね 三位一体が聖書に基づいた教えかどうかを調べることをおすすめします
次に神の体について考えるにあたり聖書の他の記録もやくだちます
例えば創世記の1章で神が天と地を創造される前 そこには物質がまだ存在していなかったとき 神は霊としておられたという点です
また創世記6:2を始め聖書の中でたびたび霊者である御使いが人に見えるように現れたことです 復活後のイエスと同じように霊者は肉体を用いることが出きるという点です(人間そのものにならなくても)
こうしたことを考慮すると聖書もそのコリント第一15:44で述べているように「物質の体」と「霊的な体」は全く異なるものではないでしょうか キリストは復活後 必要性があったので肉を身に付けました
興味深いことに聖書には御使いたちが肉を身につけて現れたことは記録されているものの 神ご自身がその様のして現れた記録はないのでは?ヨハネ第一4:12にあるように「いまだ だれも神を見たことはありません」
第一コリント1:23などについて触れておられますが そうした聖句は復活後のキリストの外見について述べているものではないと思いますが・・・

2014/5/420:34:08

>さて、クリスチャンのみなさんは、この、聖書における
>神の身体性という問題を、どのように考えますか?
>なお、宗教カテでよく出て来る、茶化すような、悪戯回答は、
>どうかお控え願います。

僕はこんな質問自体が、茶化しじゃないかと思ってるんだけど
創世記に「我々に似せて人間を造ろう」と書かれているんだから
我々(神神)も人間に似た体を持っているんだろね。
一方でヨハネ福音書には「未だかつて神を見た者はいない」とも
書かれているので、神様は姿形を持っていないんでしょうね。

聖書を書いた人達も多分判っていないんだよ。
想像上の存在でもあるし、聖書を書いた人によっても違うんだよ。

聖書なんて、所詮その場の思いで好き勝手に書かれた物なんだから
どちらもあるんだよ。

odsnqさん

2014/5/418:23:00

神は体は無いとは、神は物質的体でなく
時間空間を超越した存在であるの意味です。
般若心経の色即是空 空即是色に似た哲学や実相です。
イエス・キリストは神であり人間だから、空(物質的形を必要としない)神の時も
色(物質的人の姿)の時もあり。自由自在に神、人の状態になれる。

2014/5/410:45:50

モルモンです。

聖書に出てくる「主は霊」「神は霊」という記述は「神は霊体」だという意味ではないでしょう。

いずれの箇所も古い律法からイエス様のもたらした霊的律法への転換を表現しているようです。

コリント人への第二の手紙 3:6
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

ヨハネによる福音書4:19-21
女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。
あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。


4:24
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」
----

霊に仕える者、霊とまこととをもって礼拝。ここに注力して読むとイエス様のもたらした福音がこころ(霊)を大切にした教えである事を「神は霊」「主は霊」と表現しているのです。

d_d_g89さん

2014/5/408:35:27

キリスト教の教義には、
「受肉」というキーワードがありますね。

神が肉体を持った例は、イエスだけだと思います。
イエスは全人類のサンプルとして肉体をもって復活し昇天したことになってます。

死んで霊になった人間(イエス以外の普通の人間)が
肉体と共に復活するのは終末でしょう。

イエス以外で、神が肉体を持って現れることはもう無いんじゃない?
イエスによって全ては「成し遂げられた」んでしょ。

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