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(続々)キリストが神であるなら「体」は?kawa73137さんの指摘について。

deusprovidetさん

2014/5/606:07:48

(続々)キリストが神であるなら「体」は?kawa73137さんの指摘について。

この知恵袋は字数が少なすぎて悪いです。プレミアム会員だけ字数が多くできるというのは納得できません。

>第一コリント1:23などについて触れておられますが そうした聖句は復活後のキリストの外見について述べているものではないと思いますが・・・
・・・率直に言って、勉強不足だと思います。この聖句は復活後のキリストと無関係ではありませんよ。
「パウロにとって、今も生ける『復活のキリスト』の方が、過去の出来事としての十字架を担うキリストよりも重要であったということは、想像に難くない。にもかかわらず、パウロが、『十字架のキリスト』のみを知りたいと語るのはなぜだろうか。それはその『十字架のキリスト』のみが『復活のキリスト』でありうるから、という理由以外ではない。逆に言えば、上述したように『復活のキリスト』とは『十字架のキリスト』であり続けているということだ。そしてそのことは、ここで『十字架につけられたキリスト』と訳されているギリシア語の原文からも言える。なぜなら、そこでは現在完了形の分詞が用いられているのだが、ギリシア語における現在完了形は、完了した動作が今も継続しているということを強調して言い表しており、それゆえここは、『今も十字架につけられてしまったままでいるキリスト』と直訳することができるからである。」(青野太潮著『どう読むか、聖書』〔朝日選書〕p209~210)
ちなみに青野太潮氏は、日本におけるパウロ書簡研究の第一人者です。その点では新世界訳だろうが新改訳だろうが関係ありません。パウロの原テクストは同じ。「復活後のキリストの外見」は「十字架のキリストの姿」と無関係ではないのです!
さて、そこで、ようやく質問ですが、kawa73137さん、あなたは聖書が啓示する「神」(=YHWHの名によって体を現されるお方)に、いかなる意味においても「体」は無いとのお考えですか?
神が「霊」であることと、神に「体」があることとは矛盾すると思われますか?
これが1つめの問いです。
2つめの問いです、あなたがJWだとしての話ですが、JWでは聖書神学をきちんと教えないのですか?「エホバの証人卒業大学」というものがあるそうですが(神学部が・・・)そこでは一体、何を教えているのですか?
せめてウィリアム・ウッドの『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社)に反論できるくらいの知識と弁論力を身に付けてほしいと思います。

補足ehyehさん、毎度です。いろいろ引用してもらって感謝ですが、「キリスト・アデルフィアン派」というのはJWに似たようなものですか?日本に支部とかありますか?それと、あなたJWに親近感があるようですが、JWの組織内に正統神学をちゃんと学ぶ機関はないか知りませんか?敵の思想を学ばずしては議論にはなりません。ウッド氏にも言われっ放しで何も反論できないとは情けないですよね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

ehyehistさん

編集あり2014/5/709:37:36

(補足に対して)
「あなたJWに親近感があるようですが、」→何を根拠にそう言いますか!誤解です。それと「アデルフィアン派」については知りません。カテマスのrishouとかいう人の過去の回答を参照しただけです。ご自分で検索でもして調べて下さい。ついでに青野氏の著書から引用した関係で、odsnqさんの回答にも批判しておきます、誤解なので。青野説を勝手に福音派的に解釈されたのでは引用者としても申し訳ないですからね。
deusさんが引用した文言についてもそうですが、青野氏は福音派が強調するほどに「罪の贖い」というものを聖書の中心的なものとは考えておられません。むしろ「十字架」と「贖罪死」を分けて考えるように指導されたのです。だから、引用した文言は、deusさんのように形体に重きを置く理解も誤解なら、odsnqさんの「十字架の贖い」の「効果」うんぬんといった贖罪論的解釈はもっともっと誤解です!できれば削除されることをお勧めします。

ヨコヤリですが、以下、参考まで・・・。
三浦綾子さんは『旧約聖書入門』で「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)であるから、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。」と解説していますが、この場合の「体」は肉体の意味でしょう。多くの人は「体」と言えば「肉体」を連想します。しかしキリストはまさにその「肉」を受けられたのですね。でも神ご自身に肉体は無い・・・そこが、よく言われるように神秘としか言えないのでしょう。
さて、ご質問の件は、キリスト・アデルフィアン派の「聖書基本知識」で次のように言われています。
「神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。」
http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/D01.html
「神が実際形体を持って、触知出来る人として現れたことが威厳と栄光のある聖書の主題であります。またそれはイエスが神のみ子であると言うキリスト教の基本教義でもあります。もし神が形体を持つ存在でないとすれば、"彼の本質の姿"であったみ子は持つことが出来なかったでしょう。多くの人たちの観念になっているように、もし神がただ宇宙の空間のどこかにある一すじの鬼火のような存在であるとすれば、人間が神と人格的関係を持つことは出来ないでしょう。宗教の大部分が神に関してそのように触知出来ない非実在的存在であると言う観念が人類に悲劇をもたらしているのです。」
http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/0102.html
モルモンでなくても、神の形体を認める立場があるわけです。ウェストミンスター大教理問答でも「神が霊である」ということは、「物質的な体をもたない存在である」ことを意味するのであり、いかなる意味においても「体」が無いということではなさそうです。神に人格があることを信じるならその「主体性」を否定できません。
青野氏の説の件は形体面に重きがあるのではないとは思いますが、まあ、そういう解釈も成り立ちますね。
『「十字架の神学」の展開』では次のように言われています。
<パウロにとっての「復活の主」とは、依然として「十字架の主」なのだ、ということを意味しています。つまり「復活の主」とは、パウロにとって、神々しく天的な存在として直接的に語り得るものだったのではなく、弱さゆえに十字架につけられ、しかも今も十字架につけられたままでいる「十字架の主」として、ただ逆説的にのみ語り得る存在だったのです。だからこそパウロは、上でふれた第一コリント二・二で「十字架につけられてしまっているキリスト以外のことは何も知るまい」と語ることができたのです。これは「復活の主」を軽視しているのではなく、むしろ全く逆に、そのように語ることによって実際は「復活の主」についてパウロは語っていたのです。>
パウロ自身は、キリストが復活後も実際に十字架につけられて血を流した姿で神の右に座していると思っていたのかどうかはわかりませんが、とにかく聖書ではキリストが昇天後も身体を有していることになっています。

質問した人からのコメント

2014/5/8 01:38:21

成功 すみませんが、下の方にも回答して下さい。三位一体論で「従属」と「対等」が矛盾しないという人がいます。他、3名の方に依頼し、うち2名にはコイン200枚もかけて回答リクエストしています。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412857018...

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

odsnqさん

2014/5/612:47:52

イエスの十字架の償いは、当時からすると未来の我々にも、
効果のあるもの
十字架の死と復活の効果は現在進行形だからです。

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