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ご回答宜しくお願いします。

gak********さん

2007/11/2422:01:34

ご回答宜しくお願いします。

第二次世界大戦・・・「日独防共協定」が結ばれても、「独ソ不可侵条約」も結ばれ、そして、「日独伊軍事同盟」が結ばれました。日本はドイツのこの姿勢をどうみてたのでしょうか?日独防共協定違反との姿勢を貫かなかった日本の事情は何でしょうか?

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わっかさん

2007/11/2422:41:44

独ソ不可侵条約の締結で、一時日本政府のドイツ不信は極めて大きなものとなった。
日本の主たる仮想敵は間違いなくソ連であった。しかしノモンハン事件で、対ソ戦に備えた関東軍の装備が、質・量ともに劣っていることが明らかとなってしまった。また装備の多くを失ってしまっている。北進論は大きな打撃を受けたのである。
1940年、ドイツがフランス、オランダなどに侵攻し短期間で勝利すると、情勢が変化する。これらの国のアジアにおける植民地が無主の地となり、しかもドイツの戦勝が目前に迫った。南進論が一気に主流となった。
その際、北方の脅威であるソ連を封じ込める必要があり、松岡洋右は三国同盟にソ連を加えた四国同盟を意識し始めている。
そうしてみると、アジアの旧オランダ領やフランス領の権益を巡って、戦勝国になるはずのドイツとの関係改善は必須であったし、独ソ不可侵条約もソ連封じ込めという立場からは有利に働く可能性が高いと判断したわけである。
ドイツにしてみれば、既に独ソ戦を意識しており、その際、東からソ連を牽制するとともに、残った敵手である英国の戦力をアジアに拘束させる意味で、日本との同盟は有利と判断したのである。
今度こそドイツの意図を全面的に理解したつもりになっていた日本は、三国同盟に踏み切った。「バスに乗り遅れるな」という当時のスローガンが示すとおりの気分だったと思われる。またドイツの意図を誤解したままだった日本は、四国同盟への方向性を維持し、三国同盟締結後に、直ちに日ソ中立条約を締結する。
その直後、ドイツ軍はソ連に侵攻。日本国内では再び北進論が台頭したものの、主流とはならず、条約締結当初の目標通り南進の方針を貫くことになる。
こうやってみると、よくもまあこれだけこけにされながらついていったものだと思われる。中国との戦争が泥沼化し、ソ連の実力を確認してしまった後では、選択肢が限られていたと言う点は、認めるべきなのだろうと思うのだが・・。

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goi********さん

2007/11/2500:16:35

元々親独派は英米仏に対抗することを狙っていた、そして半ばドイツのいいなりに近かったこと、
(ドイツは対ソ開戦でも、一応は匂わせ警告していたとはいえ、日本を裏切る形になりました。
二度裏切られたかかわらず親独派は相変わらずドイツとの同盟を見直そうとしなかった。それくらいに『いいなり』だった。)
そして外交で大きく舵を切れるような手腕、覚悟がある政治家がいなかったのが
「独ソ不可侵条約」後の転換がなかった原因と言っていいのではないでしょうか。

近衛内閣の末期から「日独防共協定」を「軍事同盟」に強化する動きがあり、平沼内閣にも継承されましたが、
対象をソ連のみにするか、英仏も含むかで割れていました。後者がドイツ案であり、親独派、強硬派は後者を支持していました。
平沼内閣は七十数回にわたる五相会議を行いますが、結局、「独ソ不可侵条約」が結ばれます。
平沼首相は大きなショックをうけ、『欧州の天地には複雑怪奇の現象を生じ』という迷言を残して総辞職しました。
平沼騏一郎がナチスを共産主義やユダヤ人勢力と戦っているということで評価していたのですが、
そのナチスドイツとソ連が手を組んだと言うのは、彼には理解不能な事態だったのです。
以降、平沼はドイツへの接近に懐疑的な態度をとるようになり、親英米派と見られたり、松岡洋右から非難されるようにもなりました。
昭和天皇はこれを機会に軍部が目を覚ましてくれると良いと語り(畑日誌)、
西園寺公望もこれは「有史以来の大失敗」で「英米仏と一緒になる」のがいいと話しています(原田日記)。
しかし親独派勢力(前述の英仏対象派でもあるだろう)においては「日本がグズグズしていたせい」でドイツを非難すべきではない、
この機会に英国、中国に強くでるべきとも意見が多かったようです(中野正剛『独ソ不可侵条約と日本』)。

平沼の後継については当然、親英米派の登場も見込まれました。
近衛文麿はこの間三国軍事同盟に関し本意がどこにあったのかが非常に不明確なのですが、
陸軍大将荒木貞夫を推しています。荒木は右翼的な人物として知られましたが、腹心の小畑敏四郎の助言によって平沼内閣では反三国同盟論を主張していました。
しかし荒木は二・二六事件以降失権しており、近衛以外に推す人がいませんでした。
西園寺公望は近衛に対して池田成彬を推すように言います。池田は三井財閥の大番頭として知られ、親英米派でした。
しかし近衛は「軍部がしまったと思っている隙に英米派を持ってくるのは軍の反感を買う」(近衛手記)として池田を推すのをためらいます。
結局、後継は阿部、米内と続きましたが、大きな路線変更ができず、
そのうちにソ連をも含めた英米仏を対象とする四国同盟論も出てきて近衛はこれに乗っかってしまい、三国同盟締結になってしまいます。

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