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中国 西晋の滅亡のきっかけとなった八王の乱とはどういったものなのでしょうか? ...

mar********さん

2014/10/2121:07:33

中国 西晋の滅亡のきっかけとなった八王の乱とはどういったものなのでしょうか?

八王とは、8人の王ということですか?
教えてください

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ito********さん

2014/10/2121:46:36

八王とは八人の王です。
晋の国は、魏の国が同族を冷遇してついに滅びたことを考え、皇族に大きな権力を与えました。それが裏目に出たわけです。
経過は以下の通りです。

1.晋の恵帝の皇后・賈南風はクーデターを起こして政権を握ったが、帝室の重鎮の汝南王・司馬亮を疎ましく思い、短慮な楚王・司馬瑋をそそのかして司馬亮を殺した。

2.その司馬瑋には賈南風は反乱罪の罪名を着せてこれを誅殺した。

3.さらに賈皇后は「司馬懿の再来」と言われた皇太子・司馬遹(いつ)を殺したため、趙王・司馬倫を中心とする帝室は挙兵して賈皇后を殺した。

4.司馬倫は思い上がって権勢をふるい帝位をも望んだので、斉王・司馬冏(けい)らが挙兵して司馬倫を殺した。

5.その司馬冏も権勢をふるったので、長沙王・司馬乂、成都王・司馬頴、河間王・司馬顒(ぎょう)らが挙兵し、司馬冏を殺した。

6.その三人も仲間割れとなり、司馬乂が殺された。

7.東海王・司馬越が挙兵し、司馬頴が殺された。

8.さらに司馬顒が殺され、恵帝も急死(毒殺?)して司馬越が司馬熾を皇帝に擁立して乱は終息した(おわり)。

こんな異常な乱は世界史上にもあまり例を見ないと思います。

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jtp********さん

2014/10/2216:10:05

八王とは、西晋の皇帝の一族の王のことを言います。西晋は司馬懿仲達の孫の司馬炎が武帝として曹操の孫の曹奐から禅譲を受けて成立。呉を滅ぼして天下統一。

武帝はこの時、地方の抑えに一族や息子らを王として任命。ちなみに任命された数は8人を超えてますが、八王の乱と名付けられているのはこの乱で特に主導的役割を果たした8人ということで、ハ王の乱となっています。

さて、武帝が亡くなると、次男が恵帝として即位。これが相当に暗愚で司馬昭が世継ぎを変えろと言った逸話もあるくらい。そのため、政権は武帝の皇后の一族の楊氏が握りましたが、これに不満した恵帝の皇后の賈南風が司馬懿の息子で汝南王の司馬亮、恵帝の弟の楚王司馬禕と共謀して楊一族を殺戮。さらに司馬禕を騙して司馬亮を抹殺、そして司馬禕に司馬亮殺害の罪を着せ誅殺。

ちなみに賈南風は賈逵の孫娘で、賈充の娘です。しばらくは賈一族が専横。しかし賈南風が自分の腹を痛めてない皇太子の存在を恐れて誅殺したため、司馬懿の末子の趙王司馬倫が反発して賈南風らを抹殺。司馬倫は調子に乗って恵帝を廃して自ら皇帝になり、官位を乱発。今度は武帝の甥の斉王司馬しょうが怒り、司馬倫を誅殺。

その司馬しょうも、成都王司馬穎らにより誅殺。

さらに司馬穎、司馬艾、司馬ぎょうらも互いに争い、一時期は司馬穎が皇太弟になるなど優勢になるが、最後は司馬懿の弟の孫である東海王司馬越により全員抹殺。

残った司馬越が政権を握り、恵帝が亡くなるとその弟を懐帝として擁立。

ここまでが八王の乱といわれますが、実はまだ続きます。司馬越も結局は懐帝と争い、失脚して憤死。これで実力者が誰もいなくなった西晋に、かつての八王が傭兵として呼び寄せていた匈奴が南下。その南下で洛陽は陥落し、懐帝は処刑。

残党が懐帝の甥を長安にたてますが、これも匈奴により処刑。これで西晋は滅びました。

八王の乱と、異民族南下による永嘉の乱は同時に起こっていましたが、八王の乱で内紛を続ける西晋は手を打たずに滅んだのです。

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ste********さん

2014/10/2200:39:45

>8人の王
これは、封建制によって封建された諸侯王になります。

前漢で郡国制が出てきたと思いますが、
漢以降の王朝も、郡県制と封建制を併用していっています。
漢代以降の封建制は、皇帝が一族や功臣を諸侯に任じるという形です。
ちなみに、基本的には清朝まで継続されています。

前漢初期には、韓信などの功臣に大きな領地を与えて、
諸侯王としました。
その後、この諸侯王は劉氏のみという形に落ち着いていきます。
しかし、諸侯王は巨大な領地と、兵権を持っていたため、
反乱を起こすまでになりました。
これが、前漢の呉楚七国の乱です。
前漢の中央政府は、この諸侯王の反乱を鎮圧し、
諸侯王は兵権などを取り上げられてしまいます。
この流れは、後漢でも継続され、○○王の肩書を持つ
劉氏は後漢末でもたくさんいましたが、
どれも実権は持っていませんでした。
要するに名目上高い身分を与えられているだけです。
三国時代になると魏では、これをさらに進めて、
皇族である曹氏を冷遇しました。
初代皇帝であった曹丕と弟の曹植の対立なども
影響していたのでしょう。
例えば、この曹植なんかは、最終的には魏の陳王に
封建されていました。
それこそ、まったく肩書だけで何の実権もありませんでした。

晋が魏に取って代わると、この封建制のシステムを大幅に
変更しました。
皇室の司馬氏を諸侯王に封建するのは同じですが、
彼らには、実際に兵権をはじめとして大きな権限を与えてしまいました。
これは魏の反面教師としての政策だったのですが、
この諸侯王優遇策が八王の乱を引き起こしてしまいました。

乱の経過はすでに説明してくれていますので、
その背景だけ紹介します。

八王の一人に数えられる人物に、司馬亮という人がいます。
司馬懿の第4子にあたり、
初代皇帝の司馬炎にとっては叔父さんに当たります。
ちなみに、司馬懿はライバルの名前を息子に付けているんですね。

司馬亮は司馬氏の重鎮として、晋朝が成立後、
扶風王に封じられ、しばらくして汝南王に移りました。
彼は、王の地位だけでなく、地方軍司令官の肩書も持っており、
軍を動かす権限もありました。
魏では諸侯王を監視する役目などもあったのですが、
晋ではそういうものは廃止されました。

その結果、皇帝にリーダーシップがあるうちは、
諸侯王を取りまとめることができましたが、
皇帝が無能な人物になると、
権力をめぐって争いが起き、
その権力争いに、軍隊を率いた諸侯王が介入してしまったため、
巨大な内乱に発生してしまったわけです。

要するに、他の王朝なら、権力争いって
宮廷内とか政府内とかで行われるわけです。
ところが、西晋ではそれが、軍を率いた実力者(諸侯王)が
それをやってしまったために、大規模な内乱にまで
発展してしまったわけです。

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