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穴山梅雪は、家康に自分の身代わりにされて殺されてしまったのですか。 京都の外...

dyw********さん

2014/11/113:52:01

穴山梅雪は、家康に自分の身代わりにされて殺されてしまったのですか。
京都の外れ木津川付近で、分けのわからん集団?

野武士のような軍団に攻めたてられて激闘の末に討ち死にするようです。
これは家康が穴山をそのうちに殺そうと思っていたところに、渡りに船のような状況がかなり早くにめぐってきたと言う事でしょうか。
自分の手を汚さずに殺すあたりは家康らしい巧妙さでしょうか。
穴山の甲斐の領地も家康が奪うわけでしょうかね。

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won********さん

2014/11/204:05:39

穴山梅雪は武田信玄の姉の夫で、武田勝頼亡き後に武田家の名跡を継いだ武田家遺臣のトップだった人物です。

梅雪は家康の安土城訪問と堺遊覧に同行し、信長公記によれば本能寺の変の後、家康が命からがら堺から岡崎に戻る途中に土民に襲われて死んだことになっていますが、実際には家康は命からがらどころか服部半蔵ら200人近くの護衛付きで悠々と岡崎に戻り、その後、信長死亡の混乱に乗じてすぐさま甲斐・信濃を簒奪している事実を見ると、梅雪の死はあまりに不自然でタイミングが良すぎます。「いちばん死んで欲しい人がいちばん死んで欲しい時に何者かに襲われて死んでいる」のです。こんな都合の良い話はないでしょう。

ちなみに当時、岡崎にほど近い三河深溝城主だった家康の家臣の松平家忠は、その日記「家忠日記」に、

「6月4日、家康は岡崎に帰って来た。家康以下、伊勢を発って大浜に上陸した。町まで出迎えに行った。穴山は切腹した。(後略)」

と書いています。梅雪の死に関して信長公記とはまったく異なります。梅雪は家康と共に岡崎に到着した後に切腹させられているのです。梅雪の死後、武田家の名跡はいったんは梅雪の子の勝千代が継ぎますが、勝千代がその5年後に亡くなり、代わって武田信吉という者がその後を継ぎました。実はこの武田信吉、家康の五男である万千代が名を変えたものです。

これらの事実から見て、穴山梅雪とその子・勝千代が家康の手で殺されたことは間違いないと思います。

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dsd********さん

2014/11/118:18:10

よく、言われる話しですが証拠がないですね。

jic********さん

2014/11/115:24:34

本能寺の変のころ、穴山梅雪は上方で家康と同行していましたが、上方から逃れる最中に家康と別れてますね。梅雪が家康から謀殺される疑念を抱いたという話は『三河物語』に出てきますね。真相は不明ですが、家康も命からがらわずかな家臣とともに必死に逃れる最中でしたし、とても梅雪を謀殺しているような余裕はなかったのではないでしょうか。

家康は岡崎に逃れたあと、天正壬午の乱を経て甲斐・信濃を確保していますが、穴山氏の領地である河内領は梅雪の遺児・勝千代に安堵していますね。むろん、徳川氏の庇護においた形ですが、領地を奪ったわけではないです。

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