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人生を修行として捉える者ですが、 これが分かり、その道を行けば、いつか悟りに...

bai********さん

2014/12/2607:54:44

人生を修行として捉える者ですが、
これが分かり、その道を行けば、いつか悟りに至ること
は間違いがないというようなことは、端的に言うとどの
ようなことでしょうか?

いつも何事にも慈悲の心を持ってみる、というのはどう
なんでしょうか?

言うはやすしではありますが。


今朝、昨日した或る質問に回答をいただきまして、そこ
に初期仏教の教えがリンクで示されていまして、これは
じっくり拝読した方がよいという風に思いました。
修行の道を歩きたいです。

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回答数:
13

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ベストアンサーに選ばれた回答

vai********さん

2014/12/2608:39:26

悟りとは「如実知自心」と言われています。
ありのままの自分を知ること。
それは、欲望のままとか我がままとかって意味じゃないよ。
「我」は邪魔だからね。
自己中な考えに毒されていないありのままの自分を見てください。

そして、悟りへの道は、
「菩提心を因とし、大悲と根とし、方便を究竟とす」。
菩提心とは、悟りを開きたいという気持ちです。
大悲は…まあ、わかるでしょ。
方便とは、具体的な行動のことです。

つまり悟りとは、
しっかりとした意識を抱いて、
すべてのものへの慈悲を持って、
それを具体的な行動に反映させていく生き方のことです。
それが究極である、と言われています。

>いつも何事にも慈悲の心を持ってみる、というのはどう
>なんでしょうか?

それでOKです。
御精進を。

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質問した人からのコメント

2014/12/30 06:37:19

降参 勉強させていただきました。

ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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kho********さん

2014/12/2623:01:14

人生が修行と捉えているのならそれでいいはずですよ

そう捉えている限り、悟りに至る道はありません

悟りを求めてその道を行くと悟りに至る
喉が渇いて自動販売機にコインを入れると缶ジュースが出てくる

同じですね、娑婆の取引ですから
これが仏教であるはずがないです

仏教は涅槃の話です
人生は娑婆の話です
ですから、人生が修行であるはずがないし仏教でもない
修業にはなるかもしれませんが

何かを求めて行為を行い手に入る
ふつうに娑婆のお話でしかありません

何も求めず得るものもないから修行なんでしょうね

人生を生きているだけで解決するのなら
お寺もお経もご本尊も教団も僧侶も必要ありません

仏教ですから三宝に帰依して初めて仏教徒です

せめてお寺に行って話を聞くことから始めないと
勘違い、自己満足で人生終わってしまうと思います

bat********さん

2014/12/2620:22:53

ここに、私が宿敵と決めつけた人がいるではないか!?
あいつが相手ならば、こちらに不足はない!
勝負だ!!宿敵よ!!

とまぁ、前置きは、そのぐらいにしておきましょう!!
あなたの質問では、人生の目的が出せていないですよ!!
天上天下唯我独尊という意味を間違えて伝わっています!!
これこそが、人生の目的(なぜ生きる)というのを出していますよ!!
あなたからの言い分では、ゴール無き円周をただ回っているだけにすぎないので、生命の大歓喜が起こらないでしょうね!!
一万年堂出版の
人生の意味109を読んでみてくださいね!!
あなたの問いに対する答えがでていると思いますよ!!

mas********さん

2014/12/2618:54:17

いつも何事にも慈悲の心を持ってみる、というのはどう
なんでしょうか?

簡単に言うと地球の気持ちですね。地球は全ての生き物に等しく幸せになってほしいと思っているのですよ。特定の生き物だけ特別に幸せになってほしいとか、特定の生き物だけ特別に不幸になってほしいとか思ってませんよ。
生命というものは儚いから、愛さずにはいられない心境ですね。

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ino********さん

2014/12/2614:30:32

慈悲を修行したいというようなことを言われています。慈悲はキリスト教の愛とは違います。愛は自他を分別し自分を捨ててつまり自分を犠牲にして相手を助けるということですが、慈悲は自他を分別しないことが根本です。他とは見ない、自らのいのちと見るのです。母親が我が子を見るような目が慈悲の目です。

佛様にとっては世界ぐるみが自己生命なのです。自分のいのちを大切にする当たり前の行為が慈悲なのです。

佛様の自己とは「己なし 己ならざるところなし 天地同根 万物一体」、宇宙いっぱいが自己なのです。道元禅師の言葉を借りれば「尽十方界真実人体」ということです。

では、それを悟らないと駄目なのかというとそうではなく、ちょっと考えたら分かることなのです。自分がいて自分の周りに世界が展開している。そこのあるものはみんな自分が体験すればこそあるのです。見てないもの、見えてないものは自分にとってあることにはなりません。関心のないものは薄い存在でしかありません。そういう世界を瞬間瞬間体験しつつ生きているのです。

認識しないものはないのかということではありません。認識しないものは有り様がない、どうしようもないということなのです。

とにかく、世界ぐるみが自己であることを理解し、出逢うところのものが自己生命の分身と考えるところに慈悲心というものが出てくるのです。

「自己の拠り所は自己のみなり」といわれた釈尊の自己とはそういう俺、私という限定した自分ではないことを含んで修行されるがいいでしょう。

慈悲を修行したいというようなことを言われています。慈悲はキリスト教の愛とは違います。愛は自他を分別し自分を捨ててつ...

hoh********さん

2014/12/2611:35:10

私は煩悩の塊ですし、実際上、欲界においてマダマダやりたいことがあります。やれていない、という焦りもあります。
その私が言うのもなんですが、悟りへの道を端的に表すことはできると思います。つまり
「真理=智恵+慈悲」
です。この知恵袋でやりとりをしていて、最近気が付きました。
私は元々、論語の「子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。」を座右の銘にしていました。彼方此方にぶつかり、結局ここに辿り着いたな、というところですね。

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