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後醍醐天皇についてです。教科書では【後醍醐天皇は建武の新政で公家重視の政策を...

dai********さん

2015/1/800:05:47

後醍醐天皇についてです。教科書では【後醍醐天皇は建武の新政で公家重視の政策を続けて失脚し吉野に逃れる。そのため二つの朝廷が生まれた。京都側は北朝、吉野を南朝と呼び,この南北朝は全国の武士に呼びかけて戦

った】とあります。後醍醐天皇は足利尊氏と戦ったんですか?また、吉野に逃れて後醍醐天皇は何をしたんですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

ナイト67さん

2015/1/812:12:39

端的に答えると、
・足利尊氏と後醍醐天皇は対立し戦っている
・尊氏が擁する京都朝廷(北朝)に対抗し吉野で朝廷を開いて対立した。
という事になります。

鎌倉後期~南北朝時代は、同盟と敵対が何度も行われる複雑な時代でした。
ですので、詳述は出来ないのですがごくごく大雑把に流れを書いてみます。

鎌倉幕府は源氏嫡流が絶えた事で北条氏が「執権」となり事実上の支配者となります。
この北条執権体制を「得宗体制」とも呼びますが、この得宗の時代は全ての武家は北条氏による支配を受けていました。
天皇家・公家も「大覚寺統」と「持明院統」という系統に分かれており、交互に天皇位に就くという形態を取らされていたのですが、これに反発し討幕を目論んだのが大覚寺統の後醍醐天皇です。

配下の公家や武家を糾合し討幕を目指した後醍醐帝は幾度かの挫折の後に、ついに倒幕を果たし武家による政権ではなく天皇家・公家による親政を行い、これが「建武の新政」です。
この政変・クーデターには、現行の影響で困窮し、腐敗していた北条得宗体制へ批判的だった各地の武家が参加し、源氏嫡流に近い「足利尊氏」や「新田義貞」、河内の土豪「楠木正成」などが加わっていました。
この時点では後醍醐天皇と足利尊氏は「同志」であり、武力倒幕が成功したのは彼ら武家の力によるものであったわけです。
しかし後醍醐天皇は彼ら武家に対して十分に報いる事をせず公家・天皇家のみが潤うような非現実的な政治を始めます。
これに各地の武士たちは激怒し、「武家の棟梁」の家柄で人格的にも慕われていた足利尊氏の下へ集まってきます。
この軋轢から後醍醐天皇方に就いた新田・楠木勢らと足利尊氏勢は敵対する事になりました。
はっきりと天皇家と敵対してしまった足利尊氏は、冷遇されていた持明院統の「光厳上皇」を担ぎ出し院宣を受けて後醍醐天皇側に勝利します。
「天皇家の権威」と戦う為に「もう一つの天皇家」の力を借りたという事ですね。
勝利した尊氏は後醍醐天皇を廃し、光厳上皇の子を即位させ「後光厳天皇」とします。
廃位された後醍醐元天皇は幽閉されたのですが、吉野に脱出しそこで新たな朝廷を開き各地の武家や公家を糾合して尊氏・北朝側と争う姿勢を取りました。
この吉野朝廷を「南朝」、京都の後光厳天皇を「北朝」と呼んでおり、利害を共にする全国の武家を巻き込んだ二つの朝廷が存在する50~60年の戦乱の時代を「南北朝時代」と呼ぶわけです。

最終的に南朝は滅びて北朝が唯一の天皇家として君臨し室町幕府が日本の政権組織となっています。
ちなみに現代に至るまで天皇家は北朝の後裔が即位しています。
現代でも「南朝正統論」を説く人がいたり、「南朝の後裔」を名乗る人物が出てきたりしているので日本史上に大きな影響を与えた大事件であったと思います。

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