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(1)箸墓古墳がもしも卑弥呼の墓だと確定したら、邪馬台国は弥生時代ではなく古...

den********さん

2015/1/3009:45:49

(1)箸墓古墳がもしも卑弥呼の墓だと確定したら、邪馬台国は弥生時代ではなく古墳時代前期に入るのでしょうか?

(2)卑弥呼から倭の五王の「讃」までの変遷を簡単に教えて下さい。できれば、それが分かるサイトも有ればお願いします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

qff********さん

2015/2/123:01:11

古墳時代の定義は簡単、古墳が造営されはじめてからが古墳時代。

箸墓が卑弥呼の墓かどうかは別にして、箸墓が最古の古墳とされていて造営年代が2009年、歴博の発表では240~260年の間とされている。

次に邪馬台国についてわかっていることは、邪馬台国の女王卑弥呼が最初に使節を魏におくったのは238年、247年の記事のあとに卑弥呼が亡くなったという記事があるので248年頃だと考えられる。

その後、晋書に266年に卑弥呼の後を継いだ豊与が朝貢した記事がある。

以上、238年から266年までが邪馬台国に関する記事が魏志と晋書にあることから邪馬台国は弥生時代晩期から古墳時代初期にかけての時代だとわかる。

晋書には266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられていて、箸墓(前方後円墳)のことと思われる。

したがって(1)の答えは弥生時代から古墳時代にかけてとなる。

(2)については、中国の文献からは266年の朝貢記事から413年の倭王讃(倭の五王)の朝貢までの記事がなく、空白の4世紀といわれて、実情がよくわからないが、広太王碑から391年に新羅、百済の覇権を巡り高句麗と争ったことがわかるぐらい。

質問した人からのコメント

2015/2/5 08:17:34

成功 ありがとうございます。大変参考になりました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

pir********さん

2015/1/3011:34:42


そもそも弥生時代と古墳時代の境界は曖昧です。
今日から古墳時代だとか今年からは古墳時代だなんて事はありませんからね。
現在でも弥生時代の終わりと古墳時代の始まりは重なっています。

何かしらの確証が見付かって(可能性は低いと思いますが)、箸墓が卑弥呼のものと確定した場合は、邪馬台国が後の大和朝廷、もっと言えば現在の日本に直接繋がるクニであることがほぼ確定することになります。

そうなると古代史そのものの見方、考え方が根本的に変わります。

邪馬台国が古墳時代に入るというより、時代区分そのものが見直される事になるでしょう。

私が子供の頃は古墳時代という言葉を学校では習いませんでしたからね。


答えは簡単。ハッキリしたことは何も分からない。
それが古代史の基本的な事実です。

当時のものは日本には文字史料が全くありません。
後は海外の史料になりますが、邪馬台国の記述以降、倭の五王が登場するまで記録が途切れます。
そのため確定的な事は何も言えないので、この時代を謎の四世紀などど呼ぶのです。

弥生時代、古墳時代それぞれの定義。
邪馬台国や倭の五王に関する一次史料は何か。そして、それを読む。

先を考える前にこの基本的な事をしっかり理解されるのがいいと思います。

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