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豊臣秀吉の在世時~関ヶ原の戦いの直後くらいまでの期間において、大坂や伏見にお...

kyo********さん

2015/3/819:59:47

豊臣秀吉の在世時~関ヶ原の戦いの直後くらいまでの期間において、大坂や伏見におかれていた大名屋敷に、「駐在する武士たちの数」というのは石高や家格によって定まっていたのでしょうか?

『日本を創った12人』 (堺屋太一著、PHP新書) において、秀吉の没後、約半年後に「徳川方と反徳川方の間で、一触即発。伏見が戦場になりそうになった」事件について触れられています。

ですが、
(前略) こうなると「今、伏見の町で戦争をするとたいへんなことになる」と仲を持つ人が出てくる。この当時、大名はみんな伏見か大坂にいるが兵は少ない。ここで戦えば、司令官同士が斬り合うようなことになり、上層武士の戦士率が高いからたまらない。(略)

とあります。

豊臣政権においても、諸大名たちが屋敷をもっていた (あるいは豊臣政権から与えられていた) としても、大名家の領国からそれらの屋敷に派遣される武士たち (外交官の役割を担う武士たち) の数というのは、定まっていなかったのでしょうか?
石高ごとの区別 → 50万石なら何人、3万石なら何人、などと定まっていたのでしょうか?
家格ごとの区別 → 豊臣一族、豊臣姓を与えられた大名、羽柴の苗字を与えられた大名などごとにある程度の人数の目安が定まっていたりしたのでしょうか?

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qqm********さん

2015/3/822:03:05

仕事も無いのに、大阪、伏見に、大量の軍勢を置いておく必要は無いでしょう。
大阪、伏見の町が守れる程度の兵力があれば十分です。
それ以上の兵士は、ただ飯ぐらいにすぎません。
出身地に返して、出身地の軍事警察業務もさせないと、一揆が起きたら大変です。
また、大阪、京に大量の軍勢を、豊臣家の要請も無く置いておくことは、謀反の疑いをかけられます。

質問した人からのコメント

2015/3/12 22:39:40

「大坂」と「伏見」、場所も離れていますし、おそらく徳川幕府の支配のもと、江戸に大名屋敷が置かれていた状況とは異なっていたのですかね。

豊臣政権は、大名屋敷の面でも、徳川幕府の政策のための、格好の先例 (踏み台) になったということでしょうか。

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