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(スレッド)出雲大社の建造技術は、中国のものですか?

inr********さん

2015/4/422:14:33

(スレッド)出雲大社の建造技術は、中国のものですか?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314372832...

>ここから本題、出雲大社に祀られる大国主をこの地に持ち込んだのは誰だったのか。
>高度な技術をもった技術集団がいたと考えられるが、それはどこからきたのか。

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出雲大社,スレッド,建造技術,萬葉集註釋,阿波国風土記編輯御用掛,大国主,技術集団

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ama********さん

2015/4/602:41:16

詳細は省きますが、阿波に大国主の父スサノオに関する痕跡も無数にあり、ヤマタノオロチを退治したあと、須賀の宮を造営すると「古事記」に書かれている、その宮跡に比定されるのが吉野川市鴨島町牛島字先須賀の向麻山 阿波国風土記、麻植郡 いきなり新嘗祭の最中にスサノオノミコトが乱入する場面が掲載している。古事記では有名なエピソードですが、これが当時の官製の地方史に掲載されているわけですから、神話ではなく、大真面目に地元の歴史として記載されていることがわかる。これだけでも古事記のこのエピソードは実話であり、かつ阿波で行われた出来事であることがわかる。

1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。
しかし1877年(明治10年)に財政難のため修史局は廃止され、代わって太政官修史館が設置された。
またこの際、『大日本史』を準勅撰史書と定め、編纂対象も南北朝以降の時代に変更された。

とWikipediaにあります。

この過程で阿波藩も明治政府、あるいは明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させました。

これが、「阿波国風土記編輯御用掛」です。

画像は中止された、阿波藩庁版、「阿波国風土記」の「原稿」です。
第一巻は久富憲明の署名で始まり、ほとんど校了前の状態が伺えますが。

明治の初年まで阿波藩にも所有し、徳川家にも所有ありしことが明白な「阿波風土記」が、阿波国風土記編輯御用掛が中止され後に明治五年小杉榲邨(すぎおみ)が「阿波古風土記考証」を出版した時点で、日本国内から忽然と姿を消してしました。
これまでに確認されている阿波国風土記、逸文は主に五節。萬葉集註釋いわゆる「仙覚抄」に記載されているものがほとんどです。

以下に記します。

天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。


崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。書く理由がありません。
そのところを気に留めておいて下さい。

詳細は省きますが、阿波に大国主の父スサノオに関する痕跡も無数にあり、ヤマタノオロチを退治したあと、須賀の宮を造営す...

  • ama********さん

    2015/4/617:23:22

    出雲王朝?があったとされる高麻山周辺の遺跡群について「出雲国風土記」の「大原郡」条には、「高麻山~古老の伝へていへらく、神須佐能猿尊の御子、青幡佐久佐日子命、是の山の上に麻蒔き殖ほしたまひき。故、高麻山といふ。即ち、此の山の峯に坐せるのは、其の御魂なり。」とある。
    この高麻山の周辺には神原神社古墳があり、30mの方墳で、竪穴式石室をもち、朱が使われており、石室内には、景初3年銘(239年)の三角縁神獣鏡1面が出土している。
    その「神原神社古墳」と同様の構造を示す竪穴式石室は、徳島県三好郡東みよし町加茂の式内社 加茂神社の真上、加茂山の丹田古墳に見られる。

    この高麻山の住所が島根県雲南市加茂町となり地名は一致する。
    「麻」に「積石の石室」、「加茂」という地名、そして「朱」・・・「阿波忌部」に関連されるものばかりである。

    すなわちこれらのことから、出雲王朝はすでに忌部の支配地域であったことはあきらかである。

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tjt********さん

2015/4/605:37:39

出雲大社建造の真実解明は永遠の謎です。出雲大社の技術がもし輸入されたものならば、輸出先でも画像のような建物の痕跡が残るはずです。つまり、この建造技術は出雲大社独自のものであり、技術移転は考えにくい。技術の輸出先が存在するのであれば、出雲大社に限定して技術移転したもので、出雲大社に技術移転した後、輸出先元は技術を消滅させたか滅びたかしないと、画像のような建物があちらこちら建造されるハズである。例えば、九州には自動車製造技術はありませんでしたが、東京や愛知の自動車会社が九州に技術移転して自動車製造を始めました。愛知で製造される自動車と九州で製造される自動車は酷似してます。それは技術規格があるからです。でも出雲大社は、建造できた事実があり、大元の本社のような場所が見当たらないのです。それは、技術規格が出雲大社独自のものだからです。技術規格とは、建造や製造するうえで、品質などを良くしたいので、強度や大きさやサイズ、構造などがあらかじめ決められている。決まり事がないと災害になる。

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