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死とは生から解放される、素晴らしいことだとは思いませんか?

und********さん

2015/4/2402:18:23

死とは生から解放される、素晴らしいことだとは思いませんか?

誰もが死は悪いことのように言います。それは生きることが本能である、生き物として当たり前の考えだとは思いますが、思考する力を持った人間として別の見方もあって良いと思うのです。

私は死こそ最大の安らぎであると考えます。
この世に生を受けたその瞬間から、私達は様々な試練を乗り越えなければなりません。苦しくて辛くて、耐え難いことも多いでしょう。そしてその中で、幸せを見つけられるのも事実です。
幸も不幸も、生きている間受ける全てが試練である。その波に揉まれ生きるというのは謂わば苦行と言える。
その苦行から解放され、最大の安らぎを得ることができるのは死のみ。

幸せを手にした人々は、それを手離したくない故に、死にたくないと言う。幸せでなくとも、死にたくない人は大勢いる。それは、まだ生き物の本能という檻から抜け出せていないからではないのか。
その檻から抜け出せれば、死を恐れる必要が無くなり、死を悲しむ必要も無くなる。
得られる安らぎに期待しながら、生を全うできる。


だからと言って、他殺は本人の意思を尊重していないので認められませんが。

自殺を責める人がいますが、自殺とは早々と檻を抜け出し、安らぎを与えられるのを待つのではなく、自ら手に入れる為に行動しただけですので、私は良いと思います。


死んだ先に地獄がある、死んでも魂は残ってしまう、といった考え方もあるかと思いますが、それは想像の世界に恐れている無意味な事だと捉えさせていただきます。
死の先など誰にも分かりません。分からずとも、全ての生き物に必ず与えられる。恐れる事だとは思いません。

死ぬことは悲しいことではないと思います。
皆様は死に対してどうお考えでしょうか?
「死ぬこと」とは、一体何だと思いますか?

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kot********さん

2015/4/2420:19:39

死とは何でしょうか。その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。
では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。
ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。
私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。

質問者さん、 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。死んだとしても、気が付くと貴方は、母の胸に抱かれているでしょう。

詳細は
http://www42.tok2.com/home/catbird/sitohananika.html
を参照下さい。

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ana********さん

2015/4/2806:17:19

生の肯定(死の否定)は、本能と有神論に基づく一つの価値観でしかありません。ですから、理性と無神論に基づく一つの価値観である、死の肯定(生の否定)があってもおかしくはありません。自殺する生物は人間だけですから、私は、前者が動物的で、後者が人間的であると思います。

kkk********さん

2015/4/2620:58:10

自分と世界を見捨てることだろ

oki********さん

2015/4/2520:39:31

「死」を悪いことのように思っているのは本人よりも周りではないですか。だから生きたくもないのに救急車で運ばれると生かされてしまうのです。特に医者は生かすことが「善」だと思っているようです。

本人も周りに対する「責任」がなければそれほど「生」にこだわっているようには見えないです。ただ死ぬときの経験したことのない苦痛がなければの話です。

cam********さん

2015/4/2500:54:08

確かに「安らぎ」という言葉は死者の在り様を語る上で、最も適切な表現であると
私も思うし、事実巷にはこの組み合わせは溢れています。

ですが、「安らぎ」といえども本来は生きている私たちが感じて造り出した言葉であり、「比喩」として代用しているに過ぎないのです。それは寧ろ生きている人(残された人)の切に願う心情から出た言葉に他ならない。何処まで行っても死者の言葉には成り得ないのです。
そして同時に生きている人から出る言葉であるなら、恐れる事も悲しむことも自由です。また死が迫った人がどう思うかは、当然ながらその人の人生に刻まれた記憶がベースとなるでしょうが、優先順位の変動はあるのかも知れないですね。




書いてて思ったのですが、
質問者さんは「言葉の表現」に関心が高いのかな?と思ったので、以下を参考にしてみてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E...

om_********さん

2015/4/2420:49:53

生きているものだけが死にますから、死と生は表裏一体ではないでしょうか。

生が大したものでないなら、死も大したものではないのでしょう。

生きているものだけが死にますから、死と生は表裏一体ではないでしょうか。...

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