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天武天皇在世中から皇后の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は自分が唯一産んだ草壁皇子を天皇にしようと運動を行った。 結果草壁皇子は最有力の皇位継承者となったが、若い上に敵が多くなりすぎ天武天皇崩御すぐには即位できない状況になった。 そこで鸕野讚良皇女が中継ぎで即位し持統天皇となった。 ところが草壁皇子は若くして死去してしまう。 この事態に持統天皇は草壁皇子の幼い息子(つまり孫)の軽皇子を何としても天皇にしようと下準備を始める。 そして軽皇子が15歳になると、早速皇子に皇位を譲って退位した。 天皇が退位して譲位するのは史上初めてのことであった。 5年後に持統上皇は崩御したが、文武天皇も在位10年25歳で崩御した。 持統上皇崩御後事実上皇室のトップとなっていた阿部皇女(草壁皇子の妃)は、文武天皇の唯一の皇子である首皇子を何としても皇位につけようと、持統天皇の例を参考に自ら即位して元明天皇となり中継ぎを勤めた。 しかし首皇子が成長しきらないうちに体調不良を訴えるようになり、譲位して娘の氷高皇女を中継ぎの中継ぎ元正天皇として即位させた。 元明上皇は首皇子の即位を見る事無く崩御したが、元正天皇は皇位を守り抜き、甥・首皇子への譲位に成功した。 これが聖武天皇である。 元正上皇はその後25年生きて、聖武天皇が病の時は政務を代行したりしたという。 つまり元明天皇の子が文武天皇なのに、文武天皇が先に天皇になったのは、持統天皇の系統の女性たちが必死になって自分たちの子孫に皇位を継承していこうとした結果であった。 しかしそうまでして即位した聖武天皇は皇太子の基皇子が若死すると次男の安積親王を差し置いて阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)を即位させ、自身の系統を絶やさせてしまうのである。
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