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邪馬台国って元々どこにあったんですか? 卑弥呼は存在してるか分らないと言われ...

hat********さん

2015/6/2619:51:22

邪馬台国って元々どこにあったんですか?
卑弥呼は存在してるか分らないと言われていますが本当にそうなんですか?

卑弥呼のお墓っていまだに見つかってないんですか?

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bir********さん

2015/7/118:38:52

後漢書・東夷伝という古文書には、
後漢の時代、倭が朝貢してきたので
金印を返礼に、与えた、と
記されています。この記述を裏付ける
遺物は有名な九州で見つかった
漢之倭奴国王の金印。ただし、
コレはニセモノ説も浮上。というのは
後漢の臣下の国に金印を付与する場合、
刻印の末尾に「印」か「章」の字が
付く掟あったが、九州のは無い、
後漢が臣下国に与える金印は亀の紋章
だが九州のは蛇の紋章。
いっぽう、奈良の天理の古墳で
見つかった剣には「中平」と刻印
が、あって中平とは後漢の年号で
西暦184~188年の年号
だそうです。こういった古代遺物によって
古代は九州も畿内も日本の先進地域だった
ことが裏付け、られるかもしれない。

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mkb********さん

2015/7/206:02:33

邪馬台国の位置
魏志倭人伝の中に「邪馬壱国(ヤマイチ)」という国名があります。筑紫平野の中の吉野ヶ里遺跡を国内とした国で、「倭女王・卑弥呼」の母国です。

「倭女王・卑弥呼」と素より不仲の「狗奴国団王・卑弥弓呼」があります。この「卑弥呼」「卑弥弓呼」と非常に似た名前を読みますと、

「狗奴国王・卑弥弓呼」体制が「倭女王・卑弥呼」体制を攻撃し続けて倭国内を二部する体制にした名前です。(この時代は、名前が直接権力を表現する)


しかし、「狗奴国男王」の名前が、「狗古智卑狗~卑弥弓呼」、そして「投馬国」の官;弥弥になります。そして、副官;弥弥那利も誕生します。


「狗奴国男王・弥弥」を名乗った時代は、倭国内、「倭女王・卑弥呼」の母国「邪馬壱国」と「邪馬壱国」に並んだ「伊邪国、烏奴国、支惟国」を「狗奴国男王・弥弥」体制が占領して接収し、「狗奴国王」体制が移住しました。

そして、「伊都国内・糸島」内の「倭女王・卑弥呼」体制を攻撃して「倭女王・卑弥呼」を死に至らしめます。

その結果、「邪馬壱国(ヤマイチ)」が、「狗奴国」体制の「邪馬台国(ヤマタイ)」に変わりました。倭国が「狗奴国王」体制内となったのです

したがって、「倭女王・卑弥呼」の母国であって吉野ヶ里遺跡を残した、筑紫平野の「伊邪国、邪馬壱国、烏奴国、支惟国」範囲が「邪馬台国」の所在地になります。(古事記・大八島国文中では、大倭豊秋津島、天御虚空豊秋津根別と書かれています)

しかし、「卑弥呼」の死んだ年が、西暦248年と言われます。248年から数十年の後に日本歴史空白の100年四世紀がきます。想像ですが、「狗奴国」体制が、九州を統一し、その後、四国、本州を統一する行動をしたとしたら、中国に日本の記録を残す暇が無かったかな!、と思ったりします。

曹操さん

2015/7/203:23:53

邪馬台国への道のりは魏志倭人伝にしか書かれていません。
九州だ、近畿だ、四国だ、沖縄だというのは、すべて
後世の人たちの勝手な推理になります。


また魏志倭人伝は、当時の中国の人間が、
中国人が読むための文献として残したものであり、
ハッキリ言って邪馬台国の大体の場所が「へえーそうなんだ」
と分かればいいという程度でしか書かれていません。


また、実際に邪馬台国に行った使者が、皇帝に報告する時に
その大変さを誇張するために、誤魔化した報告をする
場合もあるために、数字についてもおよその程度である
可能性もあります。


よって、以下が記録にのこる正統性のある邪馬台国の場所になります。
和訳になりますが、これで場所が分かるひとがいれば「神」です。




記録に残る邪馬台国の場所

●倭人は、帯方郡の東南の大海中にある国に存在する。

●帯方郡より倭に行くには、海岸に沿って水行し、
韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、
北岸の狗邪韓国につく。

●そこで初めて海を渡り、約千里で對馬へ行く。

●對馬からまた海を渡り、約千里で一大国に至る。

●そこからまた海を渡り、約千里で末盧國に着く。

●そこから陸の上を東南に五百里行くと、伊都國に至る。

●そこから東南に百里行くと奴國に至る。

●そこから東に百里行くと不彌國に至る。

●そこから南に行くと投馬國に至る。水行(陸にそって水上を進む)で二十日かかる。

●そこから南に行くと邪馬壹國に至る。
そこが女王が所在する都になる。
水行で十日かかり、陸行で一月かかる。

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zaq********さん

2015/7/202:02:09

そうだろうといわれている古墳はありますが、調査ができないのでわからないです。

qff********さん

2015/7/201:42:54

>邪馬台国って元々どこにあったんですか?

邪馬台国に関する文献は複数存在していて最も詳しいのが魏志倭人伝です。

魏志倭人伝に邪馬台国の所在に関して3つの記述があります。

① 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

② 自郡至女王國 萬二千餘里

③ 會稽東冶之東(福州市の東で台湾か沖縄のあたり)

忠実に文献にしたがえば、畿内でも九州でもなく沖縄というのが正解だが、沖縄は原始社会でクニが存在せず、邪馬台国がそこに存在するという考えは合理的でない。

つまり、魏志倭人伝では邪馬台国がわからない。

次に他の文献で邪馬台国の所在に関する記録を調べると。

① 隋書倭国伝 「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」

② 後漢書東夷伝 「大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)」

いずれも邪摩惟(大和地域)が邪馬台国のことであるとしている。

邪馬台国=畿内(大和地域)と仮定して遺跡をみると

3世紀前半より畿内の大和地域には纒向遺跡という「日本最初の都市」と思われる巨大な遺跡が存在する。

どの程度大きいのかというと、弥生最大の集落が妻木田遺跡(鳥取)で170ha、邪馬台国と騒がれた吉野ヶ里遺跡が60haに対して300haで、それまでの最大級の遺跡より2倍近く大きい。

また、墳墓も桁はずれに巨大で箸墓(270m)、纒向石塚古墳(96m)、纒向矢塚古墳(96m)、纒向勝山古墳(110m)東田大塚古墳(110m)、ホケノ山古墳 (80m)と纒向遺跡に存在する墳墓は弥生墳墓で最大の楯築古墳(72m)をいずれも上回っている。

なかでも箸墓は纒向型前方後円墳という特徴的な首長墓で、この形式の古墳が3世紀に九州から東北南部まで広がったことから、纒向を中心に汎日本的な政治統合が行われたとみられている。

このような状況から纒向遺跡を中心とする畿内勢力が邪馬台国であるという結論になる。

>卑弥呼は存在してるか分らないと言われていますが本当に
>そうなんですか?

魏志倭人伝に「詔書報倭女王 曰」とありますが、詔書は外交文献で公式文献ですから卑弥呼が存在していないということありえない。

>卑弥呼のお墓っていまだに見つかってないんですか?

2011年、国立歴史民族博物館の発表によると箸墓の周辺から出土した土器などの遺物を炭素14放射線年代測定法で年代特定したところ、240~260年と結果がでた。

魏志倭人伝には、247年(正始8年)条の直後に卑弥呼が亡くなったと読み取れる
また、北史及び梁史には正始年間(240~248年)に亡くなったとあるので、247年か248年のいずれかに卑弥呼が亡くなったと想定されるので、箸墓の築造年代と予測される240~260年に時期的に合致する。

纒向が邪馬台国の都であれば、箸墓が卑弥呼の墓である可能性が高い。

chiba sogoさん

2015/7/118:17:42

邪馬台国の位置は、九州説と畿内説が有力です。今のところは、中国の文献を参考にすると九州説が有利ですが、発掘された遺跡などで判断すると畿内説が有利といったところです。しかしどちらの説も確証には至っておりません。
卑弥呼が実在していたかどうかですが、卑弥呼のことは魏志倭人伝などの中国の書物に記されています。これらを信用するなら、卑弥呼は実在したことになります。
卑弥呼の墓については、箸墓古墳という古墳ではないかという説がありますが、真実かどうかは分かりません。
結局のところ、不明な点だらけで分からない部分がほとんどです。本当に、大和政権成立までの日本は、分からないことだらけです。邪馬台国と大和政権の関係も一切分かっていませんし…。弥生~古墳時代の日本の謎が解明されるのはかなり先になりそうですね。
以上、長文失礼しました。

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