アリストテレスと孔子では「中庸」に対する考え方が違うのでしょうか?

アリストテレスと孔子では「中庸」に対する考え方が違うのでしょうか? 御回答よろしくお願いします。

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アリストテレス倫理学では、人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳をメソテース(Mesotes)と言います。この訳語として儒教から「中庸」が借用された訳ですが、実は中の一字だけで過不足のない状態をさします。つまり、メソテースは厳密には中庸の前半分の意味しか持ち合わせていません。そして、庸とは「普通の、平凡な」という意味合いの言葉です。ここで問題なのは孔子がいかなる文脈で中庸を用いたかですが、『論語』雍也第六には 子曰中庸之爲徳也其至矣乎民鮮久矣 (子曰わく、中庸の徳たるや其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。) とあります。つまり孔子は「中庸こそ最上の徳なのに、民衆からそれが失われて久しい」と嘆いてるのですが、ここに先程述べた「庸」の意味を繋げると「民衆は平凡に生きる事こそ幸福に繋がるのにそれが忘れ去られている」となり、孔子の教えが本質的には封建社会擁護の政治道徳である事を示す一例となります。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/3/9 7:24

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「君子は和して同せず」というように、アリストテレスと孔子も互いに和して同せずでしょう。 中庸の精神とは、和して同せずのようなものだと思います。 つまり、「汝の隣人を愛し、汝の敵を愛せ」というキリストの寛容の精神と同じです。