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新撰組で一番強かつたのは、 沖田総司、それとも斉藤一の どちらなのか? そ...

hayyuj9401010 (ハイユージュ)さん

2015/12/2020:51:39

新撰組で一番強かつたのは、
沖田総司、それとも斉藤一の
どちらなのか?

そもそも、強さとは、何か?


新撰組とは?

新撰組の利点、欠点、
限界、盲点とは?

歴史カテゴリー皆

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pxn********さん

2015/12/2206:12:22

沖田総司はかつて近藤勇が天然理心流の5代目を継承させる気があったのは
有名です。
その証拠に9歳の頃、天然理心流の道場・試衛館に入門。若くして才能を見せ、
塾頭を務めました。
15歳のとき日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には、
4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されています。沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を
得ていた旨も記されています。

二番隊組長だった永倉新八は後年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、
山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら
師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語り、
弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」とも語ったといわれています。
実際、竹刀をとっては近藤の一段も二段も上を行ったという記録が残っています。

沖田の剣技で有名なのが「三段突き」です。平正眼(天然理心流では「平晴眼」
と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、
その間に3発の突きを繰り出した。
即ち目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬間、
既に三度突かれていたという伝説であす。
赤間倭子によると、「山攻撃破剣」という剣法が得意であったと言います。

小島鹿之助は新選組結成前の文久2年(1862年)7月に、
「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と述べており、
新選組に批判的だった西村兼文も、「近藤秘蔵の部下にして、
局中第一等の剣客なり」、「天才的剣法者」と言い、

さらに新選組と敵対していた阿部十郎は、「沖田総司、是がマァ、
近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」
「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、
剣術などはよくつかいました」、
「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」と
語るなど、外部からもその腕前が高く評価されていました。

一方の斎藤一は新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして
副長助勤に抜擢されました。のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、
撃剣師範も務めます。

新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩のスパイであった
とされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎、
谷三十郎らの暗殺に関与しました。

沖田もあらゆる戦闘に参加しましたが労咳が悪化してからは戦線離脱し、
実戦から離れて行きました。斎藤は鳥羽伏見の戦から会津戦争まで戦い抜きました
特に如来堂の戦いでは、官軍の余りの攻撃の激しさに全員殺されたとまで言われ
ましたが、その激戦の生き抜いて明治10年の西南戦争にも参加して、新選組の
頃と変わらない豪剣を振るいました。

斉藤は刀での戦いの経験について後年、「どうもこの真剣での斬り合いと
いうものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、
そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、
夢中になって斬り合うのです」と語っています。
一説では沖田総司よりも強かったと言われています。

斉藤が老人になって第一線を引いた頃の有名なエピソードとして、
明治の末に神道無念流有信館の山本忠次郎が木に吊るした空き缶を
竹刀で突く練習をしていたところ、斎藤と思われる老人が通りかかり、
忠次郎の竹刀で缶を突いて見せました。
斉藤は一瞬のうちに突き、缶は揺れることなく貫通させました。

斉藤は「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が
大切」、「突きは初太刀でうまくいくことは少ない。私が成功したのは
ほとんど三の突きでした」などと語ったと言われています。

新選組結成時、近藤勇の弟子で有能だった沖田が一番隊組長になり、誠衛館
道場で居候をしていたが、これまた剣術が強かった永倉が二番隊組長になり、
どこかで近藤達と接点はあったものの、未だにそれがどの時期からなのかが
不明な斉藤が三番隊組長になり、各々活躍をしました。

剣道場での試合ではなく、斬り合いの実戦だけを基準にすれば、恐らく
斉藤の方が一歳年長の沖田よりは強かったのではないか?と推測します。

次に新選組とは何か?との御質問ですが近藤達は将軍も天皇も崇拝し、
その将軍の立場を脅かし、幕府を倒そうとしている勤王の志士達から
幕府を守る為に、道場を畳んでまで志士が集まる京に行き、天皇と
幕府の両方を命を懸けて守った特別警察の様な存在です。

新撰組の利点とは京都に放火し、町中を火の海にして、その隙に
幕府方の重臣達を皆殺しにし、天皇の身柄を長州藩までさらって
外国と戦って追い払う攘夷令を出させようとした志士達を一網打尽に
した「池田屋事変」に尽きるのではないかと思っております。

もし、それが成功していたら日本の未来は今と全く違ったものになって
いたと言われます。攘夷令を出して戦っても、諸外国と日本の武士の
戦闘能力の差は歴然としています。
こんな闘いではすぐに日本は負けて、当時の上海の様に割譲され植民地
になっていたかも知れません。
それを防いだと言うだけでも新選組の功績は大きいと思います。

次に新選組の欠点ですが、組を組織して動かしていた副長・土方歳三に
あったと思います。近藤が志士に対して敵対の目を向けていたのに対して
土方は隊内のスパイや局注法度違反者、裏切り者等の隊士達の粛清に力を
入れすぎてしまいました。

その結果最大の悲劇が意見を違って分派した伊東甲子太郎等を暗殺した
新選組最大の内ゲバである「油小路の変」です。これで恨みを買った
近藤は狙撃されて鳥羽伏見の戦に出られませんでした。

以降、新選組は幕府軍と共に負け続け、最後は滅んでしまいます。
どんな大きな、強固な組織でも先ず内側から派閥争いや内訌によって
弱体化し、更に外部からの攻撃によって壊滅的なダメージを受けて
滅びます。

新選組の欠点とは一時は完全無敵の組織を作り上げる功績を残しながら、
同時にその組織を維持するあまり、多くの隊士達を粛清した土方に盲点
があったと思います。

新選組の限界とは?の御質問ですが、ひとことで言わせて頂ければ、
ペリー来航以来もはや滅亡が決定的になっていた幕府を立て直そうとしたが、
やはり、沈んで行く太陽をもう一度、自分達の力で高く引き上げようと
した事にあったと思います。

黒船来航以来、もはや鎖国は通用せず、新しい時代がそこまで来ているのは
分かり切っていた筈なのに、それに逡巡した幕府と、幕府は弱腰だから倒せ
と批判して暴力行為に出る討幕派志士達。

彼等をいくら斬ってももう幕府の衰退は免れませんでした。それでも尚、
幕府を守ろうとした所に時代の限界と言うものがあったのではないか?
と推測しています。

今の時代は新選組ブームで持て囃されていますが、幕末史や近代日本史上
では、新選組は多くの志士を殺傷して日本の近代化を遅らせた要因の1つ
として数えられています。

ファンは兎も角、専門家達の意見は凶悪な志士を捕殺したのは問題ないが
真に日本の将来を考えて行動していた有能な志士達までも殺してしまった
のは、マイナスの結果だったと言う評価で一致しているのです。

質問した人からのコメント

2015/12/22 12:05:02

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