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戦国時代には傭兵集団として紀伊半島に雑賀衆と根来衆がいてましたがこの2派は如何...

got********さん

2016/3/1723:31:28

戦国時代には傭兵集団として紀伊半島に雑賀衆と根来衆がいてましたがこの2派は如何違いまた、仲は悪かったのでしょうか。

雑賀衆は雑賀孫市(鈴木孫市)とか有名人がいてますが、根来衆は根来寺のクソ坊主が種子島から鉄砲を持ってきた商人から鉄砲を購入して傭兵集団を作ったんですよね。

雑賀衆,根来衆,傭兵集団,雑賀孫市,杉之坊,鉄砲,津田監物

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ベストアンサーに選ばれた回答

ren********さん

2016/3/1819:26:51

根来衆は元々は根来寺を中心とする完全武装した僧兵集団であり、戦国時代には鉄砲を活用して傭兵集団として活躍しました。
対して雑賀衆は鈴木氏や土橋氏や岡氏といった紀伊の国人によって構成された地侍衆です。こちらも戦国時代には傭兵集団として活躍しました。
雑賀衆と根来衆の関係性については同じ紀伊国内の勢力ということで仲たがいすることはあまり無かったのですが雑賀衆が本願寺側についていたのに対して根来衆は信長側についていました。
信長が雑賀衆を攻めた紀州征伐には根来衆は信長に味方しています。

質問した人からのコメント

2016/3/22 14:04:14

川を挟んで対峙していたんですね。

ベストアンサー以外の回答

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gpx********さん

2016/3/1820:06:26

中世になって紀ノ川と雑賀川に挟まれた三角州の一帯に雑賀荘が置かれましたが、一般的に雑賀衆と言えば、もう少し広い範囲を指し、雑賀荘の他、紀ノ川右岸の十ヶ郷、雑賀川沿いの宮郷(社家郷)・中郷(中川郷)・南郷(三上郷)を合わせた五荘郷の土豪連合のことで、俗に雑賀五組または雑賀五搦(さいかごからみ)と呼ばれます。

この雑賀の五荘郷はそれぞれ「惣」と呼ばれる小領主を中心として、地縁・血縁で結ばれた自治的な共同体がいくつかあり、そうした惣が数十集まったのが雑賀衆と言われるもので、小領主や土豪たちの緩やかな連合体でした。

ちなみに雑賀孫市は十ヶ郷平井を本貫とする土豪でしたが、のちに雑賀荘にも進出して両方に本拠を構えていたのではないかと言われています。

さて、種子島に鉄砲が伝来し、領主の種子島時堯を口説き落として鉄砲一梃を手に入れたのは、実は根来衆でした。薩南派の禅僧・南浦文之(なんぽぶんし)が著した『鉄炮記』には

「紀州根来寺に杉坊某公なる者ありて、千里を遠しとせずして我に鉄炮を求めんことを欲す。時堯、人のこれを求むることの深きを感じ、(中略)すなわち津田監物丞を遣わして、特に以てその一を杉坊に贈り、且つここに妙薬の法と火を放つの道を知らしむる」

と記されています。
杉坊某というのは、根来寺の行人(ぎょうじん:寺の雑務を任された集団で、僧兵はこの階層から出る)方の僧坊の一つ、杉之坊の有力者・妙算のことだと言われています。『鉄炮記』を見る限りでは杉之坊妙算が津田監物を種子島に派遣したように受け取れますが、実は津田監物は紀州那賀郡小倉出身で妙算の兄にあたり、渡唐の途中で船が難破して種子島に漂着、在島十年余りで鉄砲が伝来する事件に遭遇するという幸運に恵まれたのでした。
ですので、実際に種子島時堯から鉄砲をもらい受けたのは津田監物です。その際、何らかの事情があって監物がゆかりの深い根来寺杉之坊を代表し、弟妙算の名代という形にしたので、このような記述になったと思われます。

監物は火薬の製法と鉄砲術を学んで天文13(1544)年に紀州に戻りました。そして、根来寺の門前に住む鍛冶師・芝辻清右衛門に命じて鉄砲の製作にかからせました。こうして、鉄砲という新兵器を得た根来寺の僧兵たちは、精強な武装集団へと変身することになります。

ちなみに、根来寺は戦国時代には、堂宇二千七百余舎、行人五千九百余人、所領七十万石を擁する一大勢力となっています。

***

根来衆は傭兵集団にもかかわらず大名領主に匹敵するような対外拡張を図りますが、紀州には高野山の他にも、地縁的・血縁的に深い関係を持つ雑賀衆が居るため、地勢上、和泉山脈を越えて泉州に侵攻せざるを得ませんでした。そこは三好三人衆の地盤であり、当然利害が衝突します。
根来衆が信長と手を組むことになったのも、三好三人衆への対抗手段からでした。元亀元(1570)年9月には、摂津の野田・福島の砦に拠る三好三人衆を信長が攻撃しますが、この時根来衆は雑賀衆と共に、昼夜を分かたず鉄砲三千梃をつるべ撃ちにして大いに苦しめました。この時、三好三人衆と結ぶ石山本願寺が立ち上がり、信長と敵対することになりました。

本願寺顕如は、根来寺にも仏敵信長を共に討つべしと持ちかけましたが、根来衆は以前からの信長との友好関係により、杉之坊主導のもと、それを拒否しました。大部分が本願寺門徒である雑賀衆が本願寺を支援したので、根来衆と雑賀衆は袂を分かつことになったのです。

雑賀五組は、雑賀孫市率いる雑賀荘・十ヶ郷のグループと、宮郷・中郷・南郷の雑賀三組のグループとに分かれて度々内部抗争を起こしていましたが、積極的に本願寺を支援したのは雑賀荘・十ヶ郷のグループでした。
そして、天正5(1577)年2月、杉之坊は根来と縁が深い雑賀三組を懐柔して離反させた上で信長の大軍を誘導し、遂に雑賀衆を屈服させてしまいました。

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