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豊臣秀吉と妻のおねの間に優秀な子供がいて、秀吉の息子(仮に名前は秀頼とする)...

家族と音楽が嫌いさん

2016/4/1006:14:45

豊臣秀吉と妻のおねの間に優秀な子供がいて、秀吉の息子(仮に名前は秀頼とする)が豊臣秀吉の後を普通に継いで徳川家康と合戦をして徳川家の江戸城を総攻撃して滅ぼしていたら、

その後の日本の歴史はどうなっていたと思いますか?

簡単に言うと秀吉が亡くなる頃に息子の秀頼がすでに30才くらいで、立派な大名として徳川家康と争えるほどの力とカリスマがあったら日本の歴史はどうなっていたのでしょうか?

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tom********さん

2016/4/1221:23:27

たらればで架空の話をしだしたら限がありません。

そもそも秀頼がお寧との間で早々生まれていたら、
たぶん朝鮮征伐はなかったでしょうし、
茶々を手に入れることがあったとしてもその間に子供は生まれなかったでしょうし、
そうなれば近江出身者がでかい面をすることもできなかったでしょうし、
だとすると清正達武闘派大名が豊臣家を割ることもありえなかったでしょうし、
そんな盤石な豊臣家に家康が簒奪するチャンスなんかも見いだせなかったでしょうし、
だったら関ヶ原も江戸決戦もなかったでしょう。

整理して言います。
もし秀吉が死ぬときにお寧の実子の秀頼が30才ならば、
家康は絶対に反旗を翻さなかったと思います。
千姫では年が合いませんが、
別の娘を差出し、
豊臣家の筆頭家老として天寿を全うしたことと思います。
もちろん秀頼もお寧も家康を除かなければならないという理由がありませんので、
仲良く暮らしたことと思います。

そうは言っても例えばその娘との間に子供が生まれないとか、
最上とか佐竹とか上杉あたり出身の女性との間に嫡子がうまれちゃうとか、
そういうことで家康が危機感を感じたりする状況はありえます。
その時秀頼がおぼっちゃん気質丸出しで政治も人間関係もまるでわからないボンクラだったりしたときには、やはり内乱が起きたかもしれません。
今あげた大名たちはいずれも名門の家系です。
家康何するものぞというプライドを持っていたはずです。
たまたま秀吉が家康に勝てなかったことで豊臣政権内での立場は逆転してしまいましたが、
関東管領や奥州探題や源氏の名門という矜持を捨てているとは思えません。
チャンスがあれば再逆転を狙うのは当然と思います。

平家が絶対的な権力を握っていた時代でも、
下々の武士たちから反感を買えばあっという間につぶれました。
その後の鎌倉幕府が下々の期待を背負って成立しても、
やはり上層部が貴族化すれば、
新たな下々の反感を買ってしまいつぶれてしまいました。
そしてそんな下々の中から信長、次いで秀吉が権力を握りましたが、
秀吉の時代ですでに顕現したように、
権力財力を握って貴族化してしまうと、
やがて下々の反感を買うのは火を見るよりあきらかです。
なにしろ戦国時代に幕を引いた徳川家康ですら、
自身の子や部下たちの貴族化にストップはかけられませんでした。
300年後のこととはいえ、日本最強と謳われた三河武士たちの子孫は我先に戦場から逃げ出すていたらくでした。
秀頼が北条高時や足利義政や、のちの時代ですが徳川慶喜のような人物出会ったら、
結局豊臣家を滅ぼすことになったと思います。

質問した人からのコメント

2016/4/16 21:41:59

回答をありがとうございました。秀吉亡き後の秀頼対家康の対決になるかどうかがカギですね。でも、秀吉が亡くなった時に秀頼がすでに優秀な若武者だったら、家康も自重していただろうという意見には納得できます。だから、大阪の人は今でも豊臣家が好きな人が多いのでしょう。

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ban********さん

編集あり2016/4/1308:04:45

秀吉の晩年の失政を、その優秀な息子が止められるのか、それが全てです。
具体的にいえば朝鮮出兵の失敗と国民の疲弊です。「負けたから失敗」なのではありません。天下統一の勢いに乗った果てしない拡大路線を改め、内政重視に転換できなければ、豊臣は国民の(てゆうか具体的には配下の大名、武将たちの)支持を失い、政権は野党(家康)に移るでしょう。
しかし、秀吉は一代でのし上がった大物創業者であり、その経営手法は人格に染み込んでいますから、自分から方針転することは不可能でしょう。
とすれば、優秀な息子がクーデターでも何でも起こして、実権を老いた秀吉から奪い取る、それしかありません。関白と北政所の優秀な実子が旗を上げるなら、「豊臣恩顧」の連中も文句ないでしょう。秀吉は隠居してくれれば、殺す必要はありません。
もちろん、新しい豊臣当主が「じゃあオレが朝鮮出兵を」と言いだす程度のヤツなら、意味ありません。大胆な政治改革が必要です。父親の政治を全否定するくらいの覚悟で。これ、たいへんな器量が要ります。そこそこ優秀、ではムリです。
でも、それが出来たなら、もう家康の出番などありません。江戸を攻めたりする必要も、自動的になくなります。
できないなら、家康にそれをやってもらうことになるまでです。

bor********さん

2016/4/1111:47:02

そりゃ大阪、豊臣家を中心とした日本になっていたでしょうね。

har********さん

2016/4/1110:14:38

個人名を念頭に考えるとどうしてもその人物の能力や性格によって政治が左右されたと思ってしまいがちですが、それを考えずに秀吉死後の状況を考えると、

「創業者の死後、政権内部で分裂が起こり、その分裂をそれぞれ有力な外様諸侯が後押しすることにより戦争に発展し、最も有力な諸侯に政権を奪われることになった」ということです。
外国人にその辺の歴史を概略的に伝えるとするとこういう形になると思います。

こう考えると、後継者が幼かった、ということは事態を動かす上で有力な要因の一つであったことは事実ですが、唯一の条件ではなかったことがわかります。
つまり後継者が幼いとしても、政権の内部分裂がなければ、もしくは政権に匹敵するするような勢力を持つ有力諸侯がいなければ、豊臣政権が覆った可能性は低いということです。

むしろ、後継者問題はその中であまり決定的な要因ではなかったと思います。
というのは秀頼が生まれず、そのまま秀次が後継者となっていて乱は防げたか、と考えると私にはとてもそうは思えないからです。
もちろん生まれてくる子供が、秀吉や家康並みに「化け物」クラスで優秀なら話は別です。しかし、化け物も世間にそう認知されなければ実力は発揮できません。
関ヶ原で家康に諸大名が味方したのは、それが認知されていたから、つまり極めて優秀な戦場司令官であり、毛利や石田では相手にすらならない、と多くの大名が考えたからにほかなりません。

ということになると、30歳くらいではだめでしょうね。
秀吉が死亡するのが、1598年、国内で戦争らしい戦争がなくなる小田原征伐が1590年ですから、当時22歳。早熟で大物の片りんを見せたとしても、「化け物」と認識されるには期間がなさすぎます。伊達政宗のように戦国の進行が遅れていた東北で暴れまわったのならまだしも、すでに秀吉による統一事業は完成段階に入っていた。
ですから、もう10歳くらい年長で、統一事業に対して秀長なみの実力を見せていれば、あるいは・・・

その場合、徳川や毛利、上杉をそのままにしていたとは考えにくい。
政権に匹敵するような有力諸侯がいては、どうやっても政権は安定しません。周到な根回しをして戦を仕掛け、諸侯の実力をそいでいったと思います。
実際、家康はそうやって天下をとったのですから。

sog********さん

2016/4/1110:08:57

〇そうなったら徳川家康は豊臣家に従属したでしょうね。
◇秀次を後見人として日本を支配したでしょう。

tak********さん

2016/4/1109:27:43

秀吉に器量のある成人した男子がいたのなら、なにも徳川と争う必要はありませんし家康も勝手できませんよ。

まず秀吉子飼いの大名たちが徳川を頼りにしなければ、家康も豊臣政権のナンバー2に甘んじるでしょうよ。

でなきゃフツーに考えても徳川が豊臣と争って勝てるとは思えないし、家康も目算はできるでしょ。

秀吉が亡くなり利家も亡くなり、各大名が徳川を頼りとして動いたから家康が覇権を握ったのであって、豊臣政権が不動なら何もできないよ。

豊臣もあえて徳川を攻める必要性はないんじゃない?

関東を問題なく治める家康を攻めたら、それこそ豊臣政権に非難が集まるよ。

各大名も動揺するだろうしね。

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