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日本史の英雄で神仏を信じなかった、宗教嫌いだった人って誰だと思いますか。

got********さん

2016/4/2123:17:15

日本史の英雄で神仏を信じなかった、宗教嫌いだった人って誰だと思いますか。

僕自身も神や仏はあまり信じていないので疑問に思ったのですが、織田信長、板垣退助とかは神仏とか嫌いそうな印象がありますよね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

kur********さん

編集あり2016/4/2219:20:30

松永弾正久秀だと思います。久秀は将軍・足利義輝暗殺後、三好家の重臣、三好三人衆と不仲になり対決する事になりました。三好三人衆は東大寺に陣をしいて多聞城の松永弾正久秀を攻めました。半年に及ぶ攻防戦の末、三好三人衆が陣取る東大寺の焼きうちを決行し、ここに永らく人々の尊崇の的であった東大寺の建造物はほとんど全焼し、大仏の首は焼け落ちて全身は焼けただれ、大仏殿も全焼しました。久秀は人々の非難の的になりましたが、久秀は「木と銅(からがね)で造られた大仏と大仏殿を焼いて、何の罰があたろうぞ」と、傲然としてうそぶいたと言います。そして天正五年(1577)十月十日の事ですが、その7日ぐらい前から「ほうき星」が出現し、異様な色の尾を引いていました。それを見た京都の人々が「あれは松永弾正がいよいよ滅亡する前兆だ。さんざん悪い事をした弾正が最期になるところの前兆だ」と言って、そのほうき星を「弾正星」とか「松永星」とか言っていました。それがちょうど久秀が多聞城の天守閣に居て、いよいよ死ぬと言う時に、家臣が天守閣からながめると空に出ていました。それで久秀に向かって「世間で弾正星、弾正星と言って、松永が滅亡する前兆だ。などと言っていましたが、とうとう噂どおりになりましたね」と言ったところ、久秀は「バカな事を言うな!弾正星が出現したのは天文の、つまり自然の理に従って出ているんだ」と言い、「天帝(神様と言うより自然の理)から言えば、この松永弾正のごときはなんら眼中にはない、そしてオレばかりではない、天皇も将軍も何も、そんなものは天帝の眼にはないのだ。あれは天文の理に従って出現しているに過ぎない」と言い張ったと言います。久秀は神仏の摂理とか因果応報と言うものをぜったいに信じない無神論者だったそうです。

質問した人からのコメント

2016/4/26 14:36:10

松永久秀のダーディーさは好きです♬

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oda********さん

2016/4/2219:59:05

ニャハハ(^^♪・・正論ですな・㋔ダハハハwでっね・・織田血族は信長以外は神も仏も尊ぶ・・だが信長だけが・・このDNAを超強く受け継いだ者は神などニャしだ居らんぞ神社も寺も燃やしてしまうんだ→これが当たり前であります・・特に信やワシはテンスケ糞皇族共も叩き潰さないかんが持論ですな・ワシは神棚を2階から庭に放り投げ燃やしてやったがのう・墓も要らんノダハハハ・・ラーメンは重要だぞ・・神よラーメン・タンメン・僕イケメンだぞよ・・インチキ詐欺師の乞食顏しとる織田のスケターの様な裂けた馬鹿大口は血族には居らんぞよ・・朝鮮人だそうである在日3世だそうである・・奇知外だわな。尾張織田宗家当主・弾正忠信長直系血族・名古屋 (^・(信)・^)

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2016/4/2219:41:55

やはり史的唯物論を主張していた
共産主義信奉者の中に居ると思います。

蟹工船でおなじみプロレタリア文学の英雄
小林多喜二などはどうでしょうか。

2016/4/2206:06:18

信長は、嫌いというより、無関心だったのだと思いますが?
それでも、キリシタンには、好意的だったのは、ただの利用には感じます。

およそ、自分しか信じなかった人は、「平将門」あたりが浮かびます。

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pikurusu5888さん

2016/4/2204:48:05

板垣が英雄とは思えないけれど、天下を取った人の多くは、まったく無宗教か、強い帰依の心を持った人が多いですね。

a_p********さん

2016/4/2202:41:07

織田信長は、本能寺の変で死ぬ19日前に「自分が神だ」と語っていたようですw
宣教師・ルイス・フロイスの「フロイス日本史」(中公文庫)によると、信長は天正10年5月に、安土で自分の誕生祝いを盛大に催させたそうです。この時代の日本では、誕生日を祝う習慣は無かったと見られていましたが、五山の僧が室町将軍の誕生日を祝う祈祷を捧げていた史料が知られるようになり、この史料の価値も増したようです。元々「誕生祝い」は、中国の「皇帝のみ」が行っていた行事だそうです。
同書には、
「神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体である、と言っていた。」
「しかし(中略)彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、(中略)それにふさわしい盆山と称せられる一個の石を(中略)、彼は寺院の一番高所、すべての仏の上に、一種の安置所、ないし窓のない仏龕(ぶつがん)を作り、そこにその石を収納するように命じた。さらに彼は領内の諸国に触れを出し、(中略)あらゆる身分の男女、貴人、武士、庶民、賎民が、その年の第五月の彼が生まれた日に、同寺とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた。諸国、遠方から同所に集合した人々は甚大で、とうてい信じられぬばかりであった」
と記されています。
フロイスは、この「狂気じみた言業と暴行」で、信長はその19日後(6月2日)デウスの怒りに触れて横死した(本能寺の変)、と書いていますw

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