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「古事記」と「日本書紀」にはどうして邪馬台国の記述が無いんでしょうか?どちら...

a33********さん

2016/10/2700:44:33

「古事記」と「日本書紀」にはどうして邪馬台国の記述が無いんでしょうか?どちらも神話のイメージが強いし、実在が認められている天皇についても神格化を狙って記したんですか?

歴史書というより文学書という感じですが。それにしても、皆さん今でも邪馬台国や卑弥呼について真剣に研究しておられるようですが、シナの文献を信用してやたらに重んじているのはどうしてなんですかね?「魏志倭人伝」は第一級の史料として信用できるのか疑問に思っています。以上、乱文ですみません。

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cel********さん

2016/10/3120:26:33

>「古事記」と「日本書紀」にはどうして邪馬台国の記述が無いんでしょうか?

「古事記には邪馬台国の記述は無い」と言ってもOKですが、日本書紀については微妙です。何故かと言うと、(他の方の回答でも触れられていますが)神功皇后紀に、中国側の史料の朝貢記事が「註」の形で引用されているからです。
国立国会図書館のデジタルコレクションで見られる岩波文庫の「日本書紀 訓読 中」から該当部分のリンクを入れておきます。

↓が、俗に言う“魏志倭人伝”から引用されている神功皇后39、40、43年の朝貢記事で〔〕内の部分です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1159875/67

↓は“魏志倭人伝”からの引用ではありませんが、現在に伝わらない晋の起居注(宮廷の皇帝近くの役人による日誌みたいなもの)からの引用として、神功皇后66年に晋に倭女王が朝貢した事が、やはり「註」の形で書かれています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1159875/70

日本書紀を「疑いながら読む」のは江戸時代に始まった事で、この註によりそれ以前は卑弥呼=神功皇后と考えられていました。例えば、室町時代半ばに書かれた日本の外交史とも言うべき善隣国宝記でもそうなっています。(↓の頁の末尾と次の頁の前半がその該当部分)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920342/6


これから確実にわかる事は、

・いつからかは不明だが、日本書紀編纂後のどこかの時点には、卑弥呼=神功皇后という考え方が存在し、それが日本書紀に付記された。(この註は、現存する写本に共通して見られるので、かなり古いものと想像されるが、時期については不明)

・しかし、神功皇后66年の晋への朝貢は、“魏志倭人伝”からすると、この時点では既に卑弥呼は死去しており、“魏志倭人伝”と日本書紀の整合性はとれていない(そもそも、卑弥呼の前の倭国大乱も書いていないし、台与に相当する女王もいないが…)

の二点です。

ですから、「なぜ、卑弥呼が記紀に書かれていないのか」を考える際にも、上記の事実を踏まえる必要はあります。が、「そういう理由じゃないだろう?」って言えることはいくつかあっても、根拠をもって「こうだろう」と言える事は実は、あまりありません。

例えば、日本書紀を編纂したヤマト王権は「独立国家主義」で、「属国政策」だった邪馬台国を葬り去った、ってな事は考え難いです。日本書紀は、自分達が中国の王朝から朝貢国扱いされている事を少しも隠そうとしていませんでしたから。推古天皇十六年=608年の八月の項目に、隋(日本書紀では唐)からの国書が引用されていますが、そこには中国の皇帝が「達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉」(遥々遠くから朝貢してきてエライぞ、朕はうれしく思うぞ、ってな意味)と国書にあった事が堂々と書かれています。こういう事を書いておきながら、「魏に朝貢した卑弥呼は抹殺しよう」という方針があったとは考えられません。
ついでに言えば、隋書でも、倭王は例の“日出處天子致書日沒處天子無恙”で隋の煬帝を怒らせた、とある一方で、その後日本に来た裴世清と会った倭王は「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義」(自分は、西の海の向こうに大隋という礼儀の国があると聞いたので朝貢した。自分は野蛮人で、海の片隅に住んでいるので礼儀を聞く事がない)とも言っています。つまり、日本書紀の倭も隋書の倭も、史料に基づく限りでは、“独立国家主義”を取っていたとは言えません。

「女性が君主であった」と書くと日本が野蛮な国であるって事になるから抹殺された、っていうのも考え難いです。なぜなら、日本書紀での神功皇后の扱いは「天皇」と同等で、日本国内でも長らくそう認識されていたのは、例えば南北朝期の北畠親房が書いた「神皇正統記」に“第十五代神功皇后”とある事からも明らかです。新唐書の倭国伝にも、神武が天皇と名乗って以降の歴代の『王』の名が記載されており、これは日本側からの情報に基づくものであるのは間違いないですが、「仲哀死、以開化曾孫女神功為王」と、神功皇后を倭王の1人として明確にカウントしています。国内史料でも、それが何らかの形で伝わった事が疑えない中国側の史料でも、神功皇后が天皇or倭王とされているのに、卑弥呼は「女性君主だから抹殺された」と考えるのは合理性がありません。

が、「書かれなかった理由は、それじゃないだろう」と言える事はあっても、根拠を挙げて「理由はこうだろう」と言えるような事はまずないですし、あまり学者の中で議論になる事もないです。それは、本質的には、日本書紀も古事記も“魏志倭人伝”が対象とした3世紀の日本の史実を知る為の史料としては使えない、とされている事から来ている、と私は理解しています。当てにならないと考えている史料に、ある人物がなぜ出てこないのか、というのを考えるのは大変、というか、あまり成果が期待できないテーマ、と言わざるを得ません。

単純な可能性としては、忘れられた(根っこから歴史が“創作されたケース”を含む)、ヤマト朝廷と無関係なのでヤマト朝廷には伝わらなかった(例えば別の王朝だった、別の地域の支配者だった、など)、別人として登場している(安本美典なんかは、卑弥呼=アマテラス説を真面目に主張していますね)、といった事が挙げられますが、どれであっても、「そうじゃない」と言う程の根拠も、「たぶんそうだろう」という程の根拠もないです。

ただ、台与に相当する人物がいない事、註で卑弥呼の死後に送られた朝貢使節が神功皇后の代とされてしまっている事、の二点は、三国志との整合性が意識されないまま、神功皇后紀(すくなくともその根幹部分)が形成された事を示唆している、って事ぐらいは言ってよい、かと思います。(逆に言えば、日本書紀の編者は「中国の史料との整合性をとろうとして悪戦苦闘した」なんて事を想像する必要はない、って事ですね。整合性を気にしていたフシが見られないから。)

もう一つ、「邪馬台国や卑弥呼が偉大な存在だった」と考える必要があるのかって事も考えた方が良いかも知れません。
日本の古代史で、卑弥呼と邪馬台国がよく取上げられる理由は、突き詰めると“魏志倭人伝”という史料があるからです。何故それがあるかというと魏に朝貢したからです。が、後漢に倭奴国王が朝貢して金印を貰ったように、朝貢自体はそれほど強大な権力者ではなくとも出来たはずです。他に史料がないせいで、卑弥呼と邪馬台国に注目が行きますが、実は、3世紀の日本列島にいくつもあった国家連合の一つの一時期の女王に過ぎない、って事でも何の不思議もないです。卑弥呼=アマテラス説なんかは、そこらへんに飛躍があるような気が個人的にはしています。
更に、“魏志倭人伝”を見る限りは、邪馬台国の王権は安定していません。ですから、仮に邪馬台国畿内説を取るにしても、後のヤマト王権と支配領域はダブっていたかもしれませんが、ヤマト王権に直接つながってなくても特段不思議じゃないです。(“魏志倭人伝”があてにならなきゃ、そもそも邪馬台国とヤマト王権との関係を真剣に悩む事自体が無意味)

そんな訳で「卑弥呼がなぜ記紀に載っていないのか」については、いい加減ちゃぁいい加減ですが「考えてもわからんから考えない」っていうのが実情ではないか、と思います。それ以前に、邪馬台国が九州と畿内のどちらにあったのか、の方がずっとホットな話題ではないか、と思います。畿内にあったのなら、3世紀前半の時点で九州北部から少なくとも畿内までは一応は一つの政治組織にまとまっていた事になりますが、九州だったら、邪馬台国の勢力範囲は九州を出ない、って事になり、国家統一の進み具合のイメージが相当違いますから…

あとはご参考まで…

>どちらも神話のイメージが強いし、実在が認められている天皇についても神格化を狙って記したんですか?

お読みになられればそうでもない事がわかると思いますよ。確かに、古事記の場合は、一部の天皇の崩御年の干支を除くと年代が書いていない、史書としては異例なものですし、内容も(神武天皇以降についても)伝説を天皇の代毎に並べた、って感じではあります。
が、日本書紀は、神武天皇以前(神代)と以降では明確に異なり、神武天皇以降については、ヤマトタケルと神功皇后を除くと、(全部じゃないが)概ね一見「史実」っぽい事しか書いていません。(異常な長寿は別として…)
「天皇の神格化を狙った」っぽい部分も特に思いつきません。長寿を除けば…

>歴史書というより文学書という感じですが。

日本書紀の神武天皇より後って、一部を除くと読んでいてつまらなくなるぐらい「史書」っぽいです。

>「魏志倭人伝」は第一級の史料として信用できるのか疑問に思っています。

「第一級の史料」というのがどういう意味かにもよりますが、中国の史書は宮廷での日々の記録がベースになっている事がほぼ確実なので、そういう記録の習慣がいつから始まったかわからない日本書紀(特に5世紀以前)に比べれば信頼度は高いです。特に、三国志の場合は、三国志が完成したのと卑弥呼が亡くなったのは、どんなに広くとっても50年ほどしかなく、魏(&その出先としての帯方郡)と邪馬台国の間で使節が行き来していた事まで疑う理由は全くないです。そんなウソを書いたら直ぐにバレますから。邪馬台国迄の道程も、対馬→壱岐→北九州までは道程と今に伝わる地名ともわりと一致しています。一方、その道程の距離(言い換えれば邪馬台国の位置)については明らかにおかしいですね。
学者によって濃淡はあれ「ここはこういう理由で信用できるがこっちはダメ」みたいな使い方をするのが基本常識です。そして、それはある程度学者の中で収斂しています。“魏志倭人伝”をまるごと信じる人は学者とは到底言えませんが「行ってないから信じられない」なんて話にもなりません。

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knn********さん

2016/11/108:35:28

> 「古事記」と「日本書紀」にはどうして邪馬台国の記述が無いんでしょうか?
> 「魏志倭人伝」は第一級の史料として信用できるのか疑問に思っています。

記紀と魏志倭人伝は無関係だと思っています。
記紀と魏志倭人伝を結びつけなければ、魏志倭人伝は第一級の史料です。

cor********さん

2016/10/3121:50:38

「日本書紀」は日本最初の歴史書で、天武天皇の命令で8世紀に編纂されました。完成したのは西暦720年です。執筆者は百済が倭国に献上した唐人捕虜の薩弘格と続守言です。執筆者は日本書紀を書くにあたり、多くの漢籍と朝鮮半島の資料を参考資料として使用しました。その中には「三国志・魏書東夷伝倭人条」も含まれており、日本書紀の神功皇后紀に魏志倭人伝は引用されています。執筆者は神功皇后を邪馬台国の卑弥呼と考えていたことになります。
魏志倭人伝は、「三国志」の「魏志・東夷伝の倭人の条」のことを言うことは、ご承知の通りです。
三国志は3世紀の約60年間のことを書いた膨大な歴史書です。執筆者は3世紀に生まれて死んだ陳寿で、3世紀のことを3世紀中に書いていますので、同時代資料として古代史の1級資料と考えられています。
倭人の条は魏書の東夷伝の最後に書かれています。魏の東にある国々が東夷として高句麗や辰韓・弁韓・馬韓の三韓についても書かれており、記述の文字数や登場人物数では倭人の条が最も多くなっています。魏には倭人の情報が多くもたらされており、魏が倭人に深い関心を持っていたことが分かります。
日本書紀は、日本は大昔から天皇が統治していた正当性を主張するために編纂されましたので、神武天皇の即位は紀元前660年になっています。一方、完成は720年ですので、7~8世紀のことは史実である信憑性は高いのですが、それ以前のことについては漢籍などを参考に書かれていますので、歴史資料としては信憑性は低いと考えられています。「百済記」などからの引用が多く、百済、高句麗や新羅との外交関係の歴史を記載しているかのようです。
一度、「三国志」と「日本書紀」を読み比べていただければ、どちらが歴史資料として第1級の資料かはご判断いただけると思われます。

ola********さん

2016/10/2819:00:04

「正史」とは、事実を記録するのではなく「君主」の正統性を訴えるために、ときには歴史的事実を歪曲している歴史書ということを前提にしなければならない。


従って、「邪馬台国」が書かれていないからといって、それが事実ではないということではなく「正史」が書かれた背景、他の文献との比較検証をおこない、どこまで事実か検証する「史料批判」を行う、これが歴史研究である。


「日本書紀」や「古事記」が成立した時期は中国の思想や体制を取り入れて肩に並べようと改革を行っていました。

「魏志倭人伝」によれば卑弥呼が大和朝廷の創始者になるのですが、「男尊女卑」の儒教思想からすると女性が君主であったということは、儒教世界では日本が野蛮な国であることなり。

中国との対抗上、日本が中国と劣らない国とする為に、記紀から卑弥呼や壹与のような女王が歴史書から消されたと考えます。


しかし、これはあくまで対外的な姿勢であって、伊勢神宮に皇祖として祭られているのは女性である太陽を神格化した「天照坐皇大御神」(内宮)と「豊受大御神」(外宮)です。

なぜ、皇祖が女性であるのか?

「天照坐皇大御神」は「大日女(おおひめ)」ともいい、日女命「ヒノミコト」が「ヒミコ」とすることも可能です。

「豊受大御神」は「トヨウケビメ」で「壹与(トヨ)」とも考えられます。


こう考えると天皇家の始祖を祭っている伊勢神宮に女性が祭神になっていることが説明できます。


>>文献を信用してやたらに重んじているのはどうしてなんですかね?
>>「魏志倭人伝」は第一級の史料として信用できるのか疑問に思っ
>>ています
>>「魏志倭人伝」は第一級の史料として信用できるのか疑問に思っ
>>ています。

「魏志」のすべてが正しい、間違っているという考え方は、いずれも間違いです。

「魏志倭人伝」には魏と倭の外交文献を引用している部分があります。

「其年十二月、詔書報倭女王曰:・・・・・・」

この部分は、基本的に変更してはいけないというルールがあるので事実だと考えられます。

したがって、倭の卑弥呼が実在したということは間違いないでしょう。

しかし、邪馬台国に位置に関しては、「会稽の東冶の東(台湾付近)」かなり南方に偏向していて、それに付随して風俗に関しても南方の風俗のようにしているのは事実ではないでしょう。

考古学的見地から台湾や沖縄付近は近世に至るまで原始的な社会で魏志にあるような大国でないことは明らかです。

何らかの政治的な歪曲が加えられて「邪馬台国」の位置がわからなくなって「邪馬台国論争」が起きているのです。

このように政治的な事情を含めて内容を精査し、事実かどうか探求することを「史料批判」といいます。

「記紀」もしかりです。

考古学的も含めて事実かどうか「史料批判」をするべきでしょう。

「史料批判」をすると卑弥呼や壹与は信用度が高い魏の外交文献に記録されているので実在したと考えるのが自然です。

では「記紀」に卑弥呼や壹与はなぜ消されたのか?

これには具体的な証拠はありませんが、状況証拠からすると、当時の日本は中国の政治制度を導入して急速に政治改革を進めていた時期でした。

中国の政治思想は「儒教」ですから、女性の王が存在するということは「男尊女卑」の観点から日本が一段と低い野蛮な国とみなされ皇室の正統性を訴えるべき「正史」に卑弥呼や壹与は政治的にまずい存在でした。

ですから、対外的に中国へも知れ渡る「正史」については(中国の正史に「記紀」の引用が見られる)、卑弥呼や壹与は歴史から消される存在だったのです。


その代わりとして彼女ら二人は伊勢神宮に祭神と祭られて「卑弥呼」は「アマテラスオオミカミ」として皇祖と崇め奉られたのでしょう。

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ina********さん

2016/10/2707:27:13

邪馬台国の頃の日本にはまだ漢字を使って記録するところまでいっておらず、そもそも邪馬台国やら卑弥呼やらは、魏の使節なり書記官なりが聞いた音に適当に卑しい字をつかって当て字した一方的なものです。
このため、記紀を編纂したおよそ500年後の人々が魏志倭人伝を呼んでも、卑弥呼や邪馬台国が正確にどこの誰だか判らなかったはずです。
しかも日本側の口伝では初期大和朝廷の大王たちは百年以上生きたり、在位したりしたことになっていますので、卑弥呼とあわせようにも時代がまったく合わなくなってしまっています。
だから記紀を編纂した人々は無理に魏志倭人伝との整合性を追及しなかったのでしょう。

tra********さん

2016/10/2706:45:32

質問者さんのおっしゃる通りだと思いますね。

日本に来たこともない陳寿の話しなんか信ずるに足りませんね。

来たこともないから、場所がメチャクチャ。

魏志倭人伝しか詳しく「邪馬台国」「卑弥呼」の記述がないなら、「無かった」でいい訳です。


100歩譲って、「そのような都市国家的なものはあった」でいいのではないでしょうか?

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