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東條内閣が二ヶ月早く発足していれば対米英蘭開戦ではなく対ソ開戦になり、日本は米...

nag********さん

2016/12/3101:00:10

東條内閣が二ヶ月早く発足していれば対米英蘭開戦ではなく対ソ開戦になり、日本は米国と戦争しなくて済んだと言うのは本当でしょうか?

また何故、近衛文麿はソ連侵攻を提言しなかったのでしょうか?
確かに不可侵条約は破ることになりますが国家の存続をかけた大博打をするよりは賢明ではないでしょうか?

ソ連に侵攻していればドイツとの決戦に満州付近の精鋭師団、機甲師団を抽出できずにソ連が負けるか抽出してしまいソ連が負けるかの二択だったはずでナチスに対英戦争参戦を条件に(当時、戦力では世界No1であった日本海軍。アメリカの軍拡を許したとしてもNo2は守れたであろう。)資源地帯の半分を割譲してもらえば中国戦線、対英戦線ともに維持できたはずです。
さらに、対ソ戦中に搭乗員育成と空母建造に走れば良かったのではないでしょうか?(この頃は第二次?上海事変で空母の有用性が多少なりとも証明されていた。)

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pio********さん

2016/12/3101:44:42

それは後知恵で出せる結論で、当時の日本の発想は、既に中国と戦争をしてそれが泥沼になっているのだからソ連とも、アメリカとの戦争なんて論外ってところだと思う。
それでアメリカとの交渉を積み重ねていたし、不可侵条約を結んでいるソ連と戦う発想もない。

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cel********さん

2017/1/518:23:47

細かいようですが、二ヶ月前じゃありえないですね。三ヶ月半前ならひょっとして、というところでしょうか…

東條内閣成立は、1941年10月18日ですから2ヶ月前は8月18日ですが、それよりも1ヶ月ちょっと早い7月2日に御前会議で決定された「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」では、一応南方と北方の両面作戦にはなっていましたが、北方(対ソ戦)については、

独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す。此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う。独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す

とあるように、武力侵攻の準備を進めつつも、好機が来たら武力行使する、というもので、この御前会議で正式に決定された南部仏印進駐などの南方対策が実際に直ぐに実行された事からしても、優先順位は明らかです。

更に、この御前会議決定に従って、(外交ルートを通じた接触やルーズベルト大統領の演説などで事前に米国から警告を受けたにも関わらず)南部仏印進駐を実行したら、8月1日に米国は「全侵略国への石油の全面禁輸」を発表したので、米国に屈する(=中国から撤兵する)か、あるいは資源獲得の為、更に南方進出を進めるか(=少なくとも英国との戦争は起きるし、それが対米戦の引き金になる可能性も高い)、という二つしか選択肢がなくなりました。

だから、8月6日の大本営政府連絡会議決定『日「ソ」間の現情勢に対し帝国の採るべき措置に関する件』(国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120207900)では、


一、対「ソ」警戒防衛に遺憾なからしむと共に厳に刺激的行動を戒め且紛争生起するも日「ソ」開戦に至らざる如く努めて之を局部的に防止するものとす。

二、「ソ」側の真面目なる侵攻に対しては防衛上機を失せず之に応戦す。

(以下略)


と、ソ連が本格的に攻めてこない限りは、小競り合いが起きてもそれが対ソ戦に繋がらないようにする、と言う方針に明確に変わりました。

ですから、8月18日前後に東條内閣が成立しても、とてもじゃないが対ソ開戦なんて無理、って状況でした。


仮に3ヶ月半前に東條内閣が成立したとして、仮に対ソ開戦に踏み切ったとしても、その後の展開の予想についてのご意見の意味が今ひとつよくわかりません。


>ナチスに対英戦争参戦を条件に(中略)資源地帯の半分を割譲してもらえば

日本が対英戦争参戦を条件にドイツからソ連の資源地帯の半分を貰う、って意味ですよね?

上記の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」では、『帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす』などとエラク威勢の良い事はいいつつも、『米国の参戦は既定方針に伴ひ外交手段其の他有ゆる方法に依り極力之を防止すへきも万一米国か参戦したる場合には帝国は三国条約に基き行動す。但し武力行使の時機及方法は自主的に之を定む。』とも言っていたのは、米国とは戦いたくなかったからです。

南方に進出して英国とだけ戦う事が可能なのか、米国との戦争に必然的に繋がるのか、という点は当時の軍部内にも議論はありました。

「独ソ戦でドイツが絶好調の間に、日本も極東ロシアを取ってしまえ」っていうのが、石油全面禁輸の前の陸軍の考えなので、もし、それがうまく行ったとしても、日本にとってはそこで話は取敢えずおしまいでしょう。

対英参戦と言ったら、具体的には日本は主に英国のアジア植民地を攻撃する事になるでしょう。
南部仏印進駐だけですら石油全面禁輸を受けたのですから、英国のアジア植民地を攻撃したら、対米関係はもっと悪くなったでしょう。(石油禁輸で済めばホント御の字です)それって、対米戦の可能性をわざわざ高めるような気がしますが?

また、仮に対英開戦をする場合、日本は三国同盟締結少し前から考えていた「英国やオランダがドイツの戦争で植民地を守る力がない絶好の機会を捉えて、東南アジアに武力進出しよう」という案(正式には1940年7月27日大本営政府連絡会議決定『世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱』で“方針”として決まったもの)があり、その考えが三国同盟に盛り込まれたのが、

第一條 日本國ハ獨逸國及伊太利國ノ歐洲ニ於ケル新秩序建設ニ關シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス

第二條 獨逸國及伊太利國ハ日本國ノ大東亞ニ於ケル新秩序建設ニ關シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス

です。だから、対英参戦をしたら日本が占領する英国植民地は当然日本のものには出来たでしょう。
が、それ以上に「ソ連の資源地帯の半分までよこせ」っていうのは、ちょっとムシが良すぎませんかね。さすがに通ったとは思えませんが…。

更に、ドイツにとってはムシが良すぎる要求だったとしても、日本にとっては(シベリア開発は第二次大戦後なので)当時のソ連の資源地帯といったらカスピ海からせいぜいヴォルガ川までで、そんなに遠くの権益を貰ってもなぁ、それと対英参戦(=対米参戦に繋がる可能性が高い)との天秤って魅力を感じませんねぇ…

また、独ソ戦のおかげで英国は一息ついていて、逆にソ連がドイツの攻撃を一気に引き受けている形になっていたので、日本が対ソ開戦する事そのものが米国との関係を悪化させる可能性がない訳ではないです。英国を守る為にはソ連を守らなきゃいかん、だったら、日本を止めなきゃいかん、って発想ですね。逆に言えば、米国を刺激せずに極東ロシアを分捕れるのなら、常識的に日本はそれ以上の事(例えば対英参戦を条件に、えらく遠くの資源地帯を貰う)はしないでしょう。

なんか、南部仏印進駐の後では起こりえない「対ソ開戦」を仮定しているのに、客観情勢は南部仏印進駐後=石油全面禁輸を受けた後=の状況を想定して、「それを解決するには、お、ソ連の資源地帯の半分を貰っときゃOKじゃないか?」みたいな辻褄あわせをしちゃっていませんかね…

その時々の政府&軍首脳は、その時の状況に応じて(少なくとも主観的には)最善の判断をしようとしたはずです。



>また何故、近衛文麿はソ連侵攻を提言しなかったのでしょうか?

いや、陸軍はまだしも、近衛文麿がそんな事を思いついたらそっちの方が不思議だと思いますが…。(あ、松岡洋右もいましたね。この頃の彼の場合は、一体何を考えていたのかよくわかりません。だからこそ外務大臣を首になった訳ですが…)

当時の日本は日中戦争の泥沼化で国力の限界に近づきつつあり、食料の配給制度も4月から導入されていました。要するに、日中戦争をどうやって終らせるか、というのが最大の課題だった訳です。それに日中戦争が終らせられないが故に、対米関係も悪化していっていました。

中国での戦争は勝って終らせたい&米国とは戦争をしたくない、という二つの問題に、対ソ連戦が解決策になりますかね…


>確かに不可侵条約は破ることになりますが国家の存続をかけた大博打をするよりは賢明ではないでしょうか?

日ソ中立条約を破る事ぐらい、屁とも思っていなかったでしょうし、ソ連やドイツとの「中立条約」「同盟」の効力に対する『幻想』を抱くほど、日本政府&軍は「大間抜け」ではありませんでした。
だから、中立条約を破るっていうのはいいんですが、なぜ「国家の存続をかけた大博打」と比較するのでしょうか。元々、陸軍が対ソ開戦を主張したのは、極東でのソ連の脅威をなくす為、程度の意味しかないですし、それ以上の効果もないです。
まして、対英参戦までしたら、それ自体が「国家の存続をかけた大博打」への突入になってしまう可能性も十分あるではないですか…

ついでに言えば、日本が米国に勝てっこなかったのは、石油がないからだけじゃないです。むしろ、現インドネシアの石油確保は思っていたよりうまく行ったぐらいです。が、圧倒的な工業生産力の差からして、時期が立てば立つほど(石油を持っていても)日本は不利になって行き、どこかで形勢は逆転するだろう、それぐらいの事は開戦時の政府&軍首脳もわかっていました。

例えば、永野海軍軍令部総長は11月4日の軍事参議院会で以下のような説明をしています。
(国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120205700)


長期戦に於いては各種の原因より予見し難き要素を包合す。先づ米に比し我れは諸種の材料、資源少なく工業力に於いても格段の差あり。且開戦後に於ける米の兵力補備につきては今日以上の能率を現はすべきを予見し得べく又海上交通の保護、攻撃等の点に於いても米は潜水艦等を東洋に増派すること容易なるべしと思考せらる点に関してのみ考うるも数年後の長期に亘り確信を以て戦局の関し述ぶること困難なり


ですから、「(日本から遠く離れたとはいえ)ソ連の資源地帯をナチスからもし貰えたとしたら…」というシナリオを当時の首脳が仮に“思いついた”としても、それよりも優先事項は『対米戦は出来れば避ける』って事だったでしょうね。そんな遠くの資源が手に入るからといって、対米戦争に繋がる可能性の高い対英参戦をする、っていう選択はちと考え難いです。(それも南部仏印進駐後の石油全面禁輸で状況は一変しましたが…)


(余談)

日本自身が(優先順位のトップではないにせよ)「チャンスが来たら、日ソ中立条約なんて破ってしまえ」という方針を御前会議で決めていたし、第二次世界大戦の勃発は、両国ともポーランドと不可侵条約を結んでいたドイツとソ連がポーランドに侵攻した事から始まったし、独ソ不可侵条約をドイツが破った事で独ソ戦が始まったのだし…と、枢軸国とソ連にとって「不可侵条約」の類を破るぐらいナンともない、って言うのが常識だと思っていたが、『不可侵条約を破るって発想はその頃にはどの国も持っていなかった』とか『日本はソ連はもう不可侵条約があるから見なくて良い、としか考えていなかった』とか、言う人が居るとは、まさに「えっ!?」ですね…

長文失礼しました

som********さん

2016/12/3109:54:44

それは、8月15日以降にソ連が侵攻してきた時の日本軍部の反応を見れば明らかです。

「えっ!?」です。
不可侵条約を破るって発想はその頃にはどの国も持っていませんでした。

将棋はルールがあるから成立します。
”金将”は斜め後ろには下がれない。

だからそこに居れば安全。

それを破って斜め後ろに下がってしまえば、それはもう将棋じゃ無くなります。


ですから、日本はソ連はもう不可侵条約があるから見なくて良い、としか考えていませんでした。
じゃなきゃ、満州国なんて作れないし、多数の民間人を入植なんてさせていないですよ。

suk********さん

2016/12/3106:17:48

少し質問と的外れかもしれませんが

当時の日本による北進論(満州からのソ連攻撃計画)は
「ソ連がドイツとの戦争のために極東シベリアの兵力をヨーロッパに移したら、日本はその隙をついて攻撃する」というものでした。

質問者様の期待するような「(日本は)勝てないまでも極東のソ連軍を攻撃して兵力を拘束し、ドイツが勝てるように支援してやろう!」という考えとは逆だったのです。

ちなみにソ連はモスクワが陥ちそうなときであっても満州の日本軍を警戒して100万近い兵力を極東に維持していたので、関東軍も「こりゃ駄目だわ」と8月にはあきらめてしまいました。

東條首相が史実より2ヶ月早く8月に首相になっていたとしても、対ソ開戦の判断は無謀というものでしょう。
(加えて当時のドイツはイケイケドンドンだったので、たぶんまた勝つだろう という予測もあっただろうし 大変だから日本が支援してあげなきゃ と思わなかったのではないでしょうか?)

というか
>と言うのは本当でしょうか?
質問者様はどこでこのような珍説?をお知りになったのですか?
当時のソ連はイギリスと対ドイツ戦争協力を表明していたし、アメリカも援助することを決めていたので、日本がソ連を攻めたら史実よりも早く アメリカとの関係が悪くなるだけだと思います。

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