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本多正信と本多忠勝は、仲が悪かったのですか?

電波猫さん

2017/1/2123:58:14

本多正信と本多忠勝は、仲が悪かったのですか?

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f27********さん

2017/1/2204:37:43

本多忠勝は正信のことを「佐渡の腰抜け」(正信の官途名が佐渡守なので)、榊原康政は「腸(はらわた)の腐った者」と陰口するくらい嫌っていたようです
他の武功派譜代家臣からも同様でしょう
ただしはじめからではないようです
正信は三河一向一揆で家康に歯向かって出奔していますが、その間残していった家族の面倒を見てやったのは、やはり武功派譜代の大久保忠世でした
帰参後は、少なくとも関東移封前は武功派からも「まあ、戦では役にたたないが、ああいうヤツも必要だよな」くらいに思われたいたのではないでしょうか
関東入国時も、領国整備の総奉行は榊原康政で、本多正信はその下に付けられていました
正信の所領もそのときようやく一万石に過ぎませんでした
秀吉が三成を重用しすぎて、子飼の武功派の反発を招いたのに比べると、かなり抑制的です
忠勝らの武功派と正信の対立が深まったのは、関ヶ原の合戦後くらいからだと思います
その前から芽はあったのかもしれませんが、関ヶ原の戦いで、中山道を行軍する徳川秀忠に付けられた正信は、榊原康政や恩人の忠世の子である大久保忠隣と対立しました
忠勝は中山道組ではありませんが、当然康政の側であり、はっきり不仲になったのはそれ以降の事だと思います

質問した人からのコメント

2017/1/27 20:02:56

みなさん、ありがとうございました。

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mat********さん

2017/1/2202:08:38

本多忠勝のみならず榊原康政を初め多くの家臣に嫌われていました。

その辺りは石田三成と武功派諸将との対立に似ていますが石田三成が秀吉の権力を代行して奉行・戦目付として直接諸将に対する不利益な処遇に関わったのに対して本多正信は単に家康の傍で参謀として居るだけなのにこの嫌われっぷりは逆に清々しいくらいです。

徳川家康との関係は良好であり「藩翰譜」では家康が「友」と呼んだとされていますのでもし家康に嫌われていたのであれば根拠を示して頂けると後学の為になります。

息子の正純が改易されたのは元々徳川家康・秀忠の二代に渡って権勢を振るってきた本多正信・正純親子に対する反感が根強くありました。

徳川家康の死後、家康付きだった本多正純が秀忠の側近として権勢を振るい始めた為、秀忠並びに秀忠の側近達の反感を買い、徳川家康・本多正信と言う後ろ盾を失った本多正純に対して、将軍として自信をつけてきた徳川秀忠、側近の土井利勝の台頭により権勢が弱まった所に反対勢力の突き上げにあったからです。

2017/1/2200:07:28

正信は主君家康にも嫌われていました。当然家臣にも嫌われていました。息子の正純が改易されたのもこれが原因だと思います。

sam********さん

2017/1/2200:03:42

正信の真意はわかりませんが、忠勝は相当嫌ってました。残っている手紙にも書かれていたりします。

ま、忠勝が何と言おうと家康の隣にいた正信が咳払い一つで却下になるんじゃ嫌うのもわかりますが。

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