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古墳の造営についてに質問です。古墳時代はおよそ3世紀から6世紀と言われていま...

pdc********さん

2017/2/502:31:08

古墳の造営についてに質問です。古墳時代はおよそ3世紀から6世紀と言われています。当時大和政権はまだないはずですが、なぜ、青森から九州まで同時にあれだけの墳墓を作ることができたのでしょうか?

設計や土木施工の技術が次から次へ伝播していく方法がわかりません。つまり情報共有する手段はなんだったのでしょうかその集落で
独自の形が発達するならわかりますが、形状についても8種類くらいにまとまれら、まるで中央集権があったようなイメージです。

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2017/2/512:05:08

墳墓の築造と祭祀については大和政権の成立以前からですから、「古墳時代の編年」とはズレがあります。

新興やまと政権以前から、墳墓は例えば天皇家の場合は、一代一宮制度による遷宮の原理で造られ、祭祀を繰り返してきました。

なので例えば、天皇家の皇孫が各地に天下りするたびにその地に新宮が造られて、やがて墳墓に葬送となりました。

だから、青森から九州まであれだけの種類と規模の多数の墳墓が造られました。
設計については不文律の掟である「天円地方の理」と決まっていて、

天皇系の皇孫は円墳+前方部。対する諸侯(地方の首長)は方形+前方部など。

其れに関する仕様、つまり土木施工の技術なども新規や進歩とは違って、保守的で伝統的なものになっていた。

つまり一定の資格者のみに一定の基準で世間に通用する祭りごととして許されたのが宮と墳墓の築造でした。

昔から規定されていた事だから、次から次へ伝播していく事もなく、その方法とか情報共有する必要もなかった。

例えば官位のようなランクによって、或いは土師氏の仕様により伝統的な墳形で各地に造営されました。

質問した人からのコメント

2017/2/7 09:08:34

納得できました、有難うございます。

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aki********さん

2017/2/609:23:42

縄文時代の後期には同じ形の土器が青森から九州まで伝わってるのにか、同じような図面が伝わったならそう不思議でもないと思うが。

man********さん

2017/2/511:21:05

①ヤマト王権の中央集権は、時期も遅く、範囲も狭いです。
・~5世紀末は、畿内だけです。
・6世紀継体天皇以降、全国展開していますが、東北は範囲外です。

図は、屯倉(みやけ、王権直轄地)の時期と分布です。
「入門邪馬台国と古代日本」洋泉社発行、の図に追記しました。

②古墳の分布は、もっと昔から屯倉より広い範囲に広がっています。また同時には造られていません。形によって時期もマチマチです。

したがって中央集権の支配ではなく、文化として伝わったと思われます。

・日本で漢字を使いますが、中国に占領されたことは有りません。
・稲作も中国南部(宋?)から伝わりましたが、宋に支配されたわけではありません。

③文化や技術の伝搬は、人の移動によるものです。

・尾張と毛野の古墳は似ています。ヤマトタケルの東征と関係があるかも知れません。

①ヤマト王権の中央集権は、時期も遅く、範囲も狭いです。
・~5世紀末は、畿内だけです。...

lin********さん

2017/2/509:30:20

古墳という墓制を中心として全国的に広まりを見せたということは、畿内に政権があったと考えられる1つの要素です。
情報共有する手段は詳しくはわかりませんが、技術者の移動によってもたらされるものではあります。
技術者が移動していない場合、擬似的なものが造られるという例もあります。

ちなみに3~6世紀の古墳は東北南部(岩手南部)までしか伝わっておりません。
7世紀以降にようやく終末期古墳が東北北部でも造られるようになります。

z_x********さん

2017/2/508:36:03

それがヤマト王権と言われてます。6世紀までは不安定とはいえ、海外派兵できるんだからそれなりの統一王権はあったと思います。大和政権と連続するかどうか確定していません。

pin********さん

2017/2/506:51:45

「古墳の墳形」を含めて、「支石墓とか、積石塚とか、箱式石棺、甕棺」等、墳墓に関する差異は、各集団間であります。
考え方として、この当時はまだ「中央集権」から各地に伝播したというのではなく、「九州嶋」から、各集団が「分岐」を繰り返しながら、列島を西から東に、新規開拓地(植民地)を求めて移動したためだと考えられます。
例えば、「青森に定住していた集団に、九州島の墳墓形式が伝播した」というのではなく、「九州島の集団が青森に入植して、自分たち風の墳墓を造営した」というのはどうでしょうか!
「半島南部に、倭国的な前方後円墳が存在するのも、同じような考え方だと思います」。この場合は「入植」ではなく、政治的な「出向」ですが!

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