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2017/2/9 0:12

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高校世界史。

高校世界史。 洪武帝が海禁をとって、その後北虜南和で倭寇がきたので海禁をゆるめ、日本以外との民間貿易(互市貿易)を認めました。 清で、海禁を解除。広州を開港、公行で貿易管理。 これで会ってますかね??

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>洪武帝が海禁をとって、 洪武帝が海禁政策を採用した背景には、前期倭寇の活動を 抑え込むことがありました。 倭寇というと海賊のイメージが強いでしょうが、 実際には武装した民間商人という側面も強かったのです。 明の海禁は、民間人の交易(人間の移動もふくめて)を禁止したもので、 明と海外の貿易を朝貢貿易のみに限定しようとしたものでした。 https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E7%A6%81-42264#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 永楽帝時代の南海遠征によって朝貢貿易が拡大し、 一時的に東アジアの海は平和になりました。 しかし、民間商人は貿易から締め出されているわけで、 その不満が徐々に高まっていき、後期倭寇となって表れました。 >その後北虜南和で倭寇がきたので ちなみに、北虜も南倭も明の貿易統制に対する反発から 起きたものでした。 南倭(後期倭寇)は海禁への反発でしたが、 北虜(モンゴル)は長城付近での茶馬貿易などの交易を 厳しく制限されていたことに不満を持ったことが原因でした。 >海禁をゆるめ、日本以外との民間貿易(互市貿易)を認めました。 北虜南倭はほぼ同時期の出来事で、どちらも最終的に 互市を認めることで、海禁(海だけでなく陸の交易も)をゆるめることで 収束させました。 しかし、日本だけは交易が解禁されませんでした。 >清で、海禁を解除。 清朝が中国本土を征服すると、三藩の乱や台湾の鄭氏 との戦いが起きたため、遷界令を出しました。 https://kotobank.jp/word/%E9%81%B7%E7%95%8C%E4%BB%A4-88038#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 これによって、清朝は沿岸部と諸外国との接触を断ち切りました。 つまり遷界令は海禁の強化策にあたるものになります。 しかし、台湾の鄭氏が降伏すると、遷界令は必要が無くなり、 解除されました。 これが清朝の海禁の解除にあたります。 これによって、民間人の海外渡航・海外との交易が自由になりました。 しかし、しばらくすると、清朝政府は再び交易を中心とした 海外との交流を制限しようとしていきました。 この時期は、東アジア・東南アジアとの交易だけでなく、 イギリス東インド会社に代表されるヨーロッパ勢力も 中国に積極的に来航していました。 北京では典礼問題などが生じ、キリスト教も問題視されはじめていました。 様々な問題が重なり、乾隆帝はヨーロッパ諸国の船が 来航できる港を広州のみに限定しました。 そこでの貿易は、朝貢貿易でなく、民間貿易という形をとりました。 それが公行と呼ばれる中国側の商人ギルドに東インド会社との交易を 独占させるというものでした。 この貿易は、清朝政府が直接かかわるのでなく、ある意味で下請けの 公行に交易からヨーロッパとの付き合いも任せてしまうというものでした。 これを広東貿易とか広東システムといいます。 この制限貿易は、海禁の延長上と言ってもよいものでした。 https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E6%9D%B1%E8%B2%BF%E6%98%93-49402#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8