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なぜ源頼朝は、小田原ではなく鎌倉で幕府を開いたのですか?

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ID非公開さん

2017/4/1116:05:37

なぜ源頼朝は、小田原ではなく鎌倉で幕府を開いたのですか?

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天網糸さん

2017/4/1117:14:27

地形が天然の要害だったこと。
そして頼朝の先祖で、前九年の役で活躍した頼義時代に鎌倉が所領となったことによる。

関東はどちらかといえば平将門など平氏が優勢だった。将門に敗死した国香、将門を打ち破った国香の息子貞盛も平氏だ。
その後、貞盛の子孫の直方が鎌倉を本拠にしていたが、将門の子孫の反乱鎮圧に失敗し、代わりに中央から下向した源頼信、頼義父子が鎮圧。頼義の武勇に感服した直方が娘を嫁がせ、自分が本拠としていた鎌倉の邸宅・領地・一族郎党を頼義に与えた。

頼義とその息子の高名な八幡太郎義家は、本来の本拠は河内にあったが、関東では鎌倉を拠点にしていたわけだ。
頼朝にとっては、偉大な先祖が本拠にしていた場所だ。しかも天然の要害とあってはそこを本拠にするのは当然の流れだろう。

ベストアンサー以外の回答

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2017/4/1201:49:25

鎌倉は幕府ナンバー2の梶原景時の本拠地だったため、鎌倉で幕府が開かれました。
当時は、本拠地となるのは政治的パートナーの領域でした。

tri********さん

2017/4/1200:43:32

鎌倉が祖先の源頼信によって
河内源氏ゆかりの地となっており
河内源氏と繋がった寺社が多く、
また小田原は当時、土肥氏の領地であり
頼朝にとっては鎌倉のほうが良かったための
ようです。

him********さん

2017/4/1117:16:37

鎌倉が天然の要塞の地であり海に面した南側以外は切通と呼ばれる岩の道によってふさがれており、兵士一人がやっと通れるほどの狭い道となっています。
いざとなれば海を使って伝令を発することもできますので、発展より防御を重視した要塞都市であったと言えます。これは、まだ、源頼朝の地盤が弱く平家はもちろん同族の中にも源頼朝に反抗していた一派もおり敵が多かったことが挙げられます。実際、源頼朝の家系は3代で絶たれ、北条氏に執権をにぎられることになります。

u7m********さん

2017/4/1116:22:12

私のカンで答えます。
昔の風水の考えで、君子の都は「北面に山を背負い、東と南は川などの水面でふさぎ、西方だけ広く開け放つ、のが理想とされているからではと思います。
鎌倉は必ずしも理想とは一致しませんが、西方にのみ広く通じ、北や東方は山で塞がれ、南方は相模湾、という立地は小田原より優れています。防衛上も好立地です。
ま、実際は別の理由だとは思いますが。

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