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武田家は信玄が嫡男の義信を粛清してからは勝頼が家督となりましたが、一説には勝...

f_r********さん

2017/4/2020:26:53

武田家は信玄が嫡男の義信を粛清してからは勝頼が家督となりましたが、一説には勝頼は信勝が成人するまでのつなぎだったとされてます。勝頼の頼は諏訪家の通字で家督となるには改名する必要がありました。

徳川家康が松平元康から改名したのも今川義元からもらった元を返上することで今川家との関係を絶つという意思表示のためでした。
自分が武田家の総帥だという自負がある勝頼と、あくまで勝頼を諏訪家の人間として信勝が成人するまでの後見人にすぎないと見る重臣たちの間に不協和音が生じてそれが互いの意思疎通を阻害し長篠の戦いでの大敗を招いてしまいました。

上杉家も謙信がはっきりと後継者を誰にするか決めてなかったために、景勝が先手を打って春日山城を占拠した結果、越後を二分する大乱に発展しました。最終的には春日山城の糧秣や軍資金を手中に収め勝頼を味方にした景勝が勝利しましたが、その間に西部戦線では織田方の攻勢を止められず守勢一辺倒となってしまいました。

両家とも後継問題で躓いたと言えます。もし、両家が家督問題をきっちりとしていたら運命を好転させることはできたでしょうか。

もし、武田信玄がはっきりと勝頼を後継者として勝信とでも改名させていたら(信長との断交前なら足利義昭から一時もらって昭信になっていたかも)、重臣たちも勝頼を当主として認めて(それでも勝頼側近衆との対立はあるだろう)主従が一致して織田に対抗して信長を窮地に追い込むことはできたでしょうか、謙信がはっきりと景虎を後継者に認定して景勝は上田長尾家の当主に過ぎないとしていたら内乱が起こらずに織田軍に対抗して攻勢に出ることは可能だったでしょうか。

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oia********さん

2017/4/2211:47:37

ただ後継者を明確にするだけではなく、生前に家督を譲るくらいの事をしておけば、後への影響はあったと思います。

まず武田家についてですが、勝頼の代になって目に見えて武田軍が弱くなったという事実はありません。
確かに元々諏訪家を継いでいた勝頼が武田家を継ぐことに、不満を持つ重臣がいたのは事実です。
勝頼が家督相続直後に、重臣の一人である内藤昌秀宛に血判状まで書いて粗略には扱わないと述べている事が、そのことを証明しています。
しかし、同時に勝頼が重臣に配慮して家中の融和を図っていたという事も、この血判状から確認する事が出来ます。
そして、勝頼時代の武田軍の実績をみると、明智城や高天神城の攻略など、信玄時代と比べて遜色がないだけの活躍をしています。長篠の戦いにおいても、武田軍は信玄時代と同様に戦況が不利でも臆せず戦い続けており、信玄時代と同様の精神性・精強さを保っていたと言えます。
つまり、勝頼の重臣への配慮は功を奏しており、武田軍は目に見えて弱くなるほどの弱体化はしていなかったとみて良いでしょう。

にもかかわらず、武田家が劣勢になってしまったのは、信玄が死亡し武田軍が数か月間動けなくなっている内に、浅井・朝倉・三好三人衆等は信長に滅ぼされ、足利義昭は京から追放され、松永久秀は信長に降るなど、武田家の同盟勢力が激減してしまったからです。
この結果、全体的な情勢は織田家に比べて圧倒的に武田家が不利になってしまいました。
このような情勢では、仮に長篠の戦の敗北を回避しても、結局どこかで織田軍に敗れてしまっていたと思われます。

逆に言えば、武田の同盟勢力が織田に滅ぼされる事がなければ、武田家はこれほど劣勢にはなりませんでした。そしてそのためには信玄が死んだ際に、武田軍が動きを止めずに活動し続ける事が必要だったと言えます。

しかし、上記のように勝頼に不満を持つ重臣もいる状況で、信玄が死ぬ前ではあくまでも「信玄の後継者」でしかなかった勝頼が、信玄の死後タイムラグなしに武田軍全体を指揮するのは不可能です。史実で勝頼が行ったような、重臣への配慮と調整が必要だったでしょう。
ですが、仮に勝頼が既に信玄から家督を譲られており、信玄の監督の下で実際に武田家を切り盛りしていたならば、或いは信玄の死の直後にも武田軍の動きを止めずに活動を続けることが出来た可能性はあります。
もしそうなっていれば、武田家が圧倒的な劣勢になる事は防げますので、その後の情勢も大いに変わったと思われます。
場合によっては、信長を追い詰める可能性もなかったとは言えないでしょう。

上杉家の場合についてですが、最近の研究では謙信の後は景勝が継ぐという事で、一旦は上杉家がまとまっていた事が分かっています。
ところが、家督相続直後の景勝の強権的な態度に一部の家臣や国衆が反発し、景勝に反旗を翻し、彼らが旗頭として景虎を担いだことで、事態は上杉家の跡目争いに発展したというのが御館の乱の実際の流れだったそうです。

一旦はまとまっていながら結局跡目争いに発展してしまっているのですから、恐らく跡目争いを完全に防ぐには、ただ後継者を明らかにするだけでは不十分だったと思われます。
しかし、この場合も、もしも謙信が生前に景勝なり景虎なりに名目だけでも家督を譲っており、数年間程度の当主としての実績があれば、反乱を防ぐことも出来たかも知れませんし、少なくとも反乱が家督争いにまで発展する可能性は格段に低くなります。ですので、結果的に上杉家の被害は史実よりは低下し、やはり後世に影響はあったと思います。

という事で、当時の武田家や上杉家の状況を考えると、ただ後継者を明らかにするだけでは不十分であり、生前の内に家督を譲るくらいの事はしておく必要があったと思われます。

実際、当主が健在の内に家督を譲るというのは、戦国時代には頻繁に行われていました。北条氏康も今川義元も織田信長も生前に家督を譲っています。
信玄や謙信もこれらの例に倣っておくべきだったと思います。

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tri********さん

2017/4/2201:57:33

いや~解らないです。

しっかりと後継者として決められた北条家の
北条氏政でも結果、大名家としては滅びています。

また武田信玄は親を追放し家督相続、、、
上杉謙信は兄・長尾晴景とお家分裂の争いから
当主となり活躍しました。
両名、親から後継者の認定を受け
あすこまで成ったのでないです。


なんで結局、大名の力量次第ではないでしょうか?

川崎さん

2017/4/2116:07:37

武田家の場合、敵対し滅ぼした諏訪家(または高遠諏訪家)の出身で当主であった勝頼が継いだことが問題であり、義信処刑後に改名したぐらいでは、家中の意思が統一できたとは到底思えません。

義信が謀反を起こす前でも、勝頼の武田家中での地位は信玄と義信に次ぐ3番目であり、武田信廉や穴山信君よりも上であることが文章などから確認されています。
このような地位の勝頼が、信玄と義信亡き後に家督を継ぐことは自然の成り行きであるはずなのに問題になったということは、勝頼には最初から当主になる資格がなかったといえます。

つまり、資格のない勝頼が家督を継ぐ以上、問題が起きることは当然であり、生まれついた時から宿命づけられていたその問題が、名前を変えるくらいでどうにかなるとは到底思えません。


上杉家の場合、謙信がはっきりと景虎を後継者に認定して、景勝は上田長尾家の当主に過ぎないと決めていたら、史実ほど上杉家の家督問題がこじれなかったと思います。

しかし、それでも北条家に反発心を持つ家臣はいたと思われ、北条一族の景虎が継いだ場合、景勝らの反抗は遅かれ早かれ起きていたと思います。

そのため、内乱が起こらずに織田軍に対抗して攻勢に出た可能性は、低かったと思います。

2017/4/2101:53:21

信長包囲網が信玄の時代にはまだ脅威であった為に、信玄の侵攻はまだ信長体制を瓦解させる可能性が高かったと思います。
しかし、信玄の時代でさえ武田単独では信長と渡り合う事は不可能でした。勝頼も長篠で敗北するまでは家臣団はまとまっていたと思います。勝頼は高天神城も落として勢力を拡大させているので名将だと思います。

一族の穴山梅雪が裏切っているので勝頼と不仲だったように思えますが、信長死亡後の信孝と信雄も内乱を起こして、しかも信雄は家臣である秀吉の傘下にされてしまいます。
勢力が弱い物が生き残りをかけて強い者につくのはこの時代の当然の行動です。宿老の山県、馬場は討ち死にしてますし、勝頼と一族衆の対立は言われるほど無かったと考えられます。

yam********さん

2017/4/2022:08:09

武田信玄は、国人領主や家臣団に気を使いながら組織してきました。
それは、権力や一時的な軍事力で抑えている証拠で、忠臣が揃っていない証拠でもあります。

つまり、武田信玄が、勝頼を後継者に任命しても、信玄没後は、結局史実と同じ様になると思います。

上杉家は、景勝が結果的に当主になったのは、直江兼続など、有能な家臣の多くが味方したからだと思います。
よって、景勝が当主になった事は、上杉家の永続性には正解だったと思います。

上杉謙信が、景勝か景虎を当主と定めても、御館の乱は起きると思いますし、織田家には勝てません。

手取川の戦いも、柴田勝家の作戦ミスであり、兵力は圧倒的に織田家有利でした。

砂菱潜之さん

2017/4/2021:20:23

抑も、武田家は、従前から家督継承に難の有る家でした。

勝頼、信勝への継承も、義信を廃嫡してのことでしたし、
晴信の継承も、父の信虎を追放してのことでしたし、
信縄の継承も、弟の信恵との抗争を経てのことでした。

甲斐国内に於いて、武田家の統率力は、代々、それほど高くなく、
晴信の軍事的な躍進で、求心力は高まりましたが、
一族や被官、国人との関係性は、基本的に変はってをりませんでした。

従って、勝頼の実名などは些末なことで、
歴史の大きな流れが変はったとは思へません。

亦た、甲斐、信濃、駿河の三国を抑へたとは言へ、
畿内を中心にそれ以上に版図を拡げた織田家と比べて、
国力の差は大きいものが有りました。
幾度かの軍事的勝利は挙げられたかもしれませんが、
大勢は変はらなかったやうに思ひます。

http://mktg-center.blogspot.jp/2014/01/1600.html
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