ここから本文です

映画「この世界の片隅に」のラストについていくつか質問です。 (ネタバレ含み...

アバター

ID非公開さん

2017/6/215:19:56

映画「この世界の片隅に」のラストについていくつか質問です。

(ネタバレ含みますのでご注意ください)

映画のラストでは、戦争孤児がすずの元に来ますよね。

そのような戦争孤児の子について、
実際に当時はどういう感じだったのかが知りたいです。

①この子は広島原爆を生き残り、その後ずっと一人で生きてきたのかと思うのですが、
一人になってすずに出会うまでどの程度の日数が経過しているのでしょうか?
結構な日数が経過している気がするのですが、
当時戦争孤児はそんなに長い間生きられたのでしょうか?

②すずに出会うまで食べ物や排せつなどどうやっていたのでしょうか?
(実際の戦争孤児はどうやって生きていたのでしょうか)

③すずが戦争孤児を引き取ったのですが、現代の感覚で考えたら
誘拐じゃないか?とか、警察に引き渡せないの?とか思ってしまうのですが、
当時は戦争孤児を勝手に連れて帰って育てるとかできたのでしょうか?
(戸籍とか、学校とかの手続きはどうなるのでしょうか)

④戦争孤児の子にシラミがたくさん感染していたようですが、
シラミはお風呂に入る程度で除去できるのでしょうか?
当時はシラミに感染したらどうやって除去していたのでしょうか?

あの映画を見るまで、戦争孤児という存在自体あまり考えた事がなく、
気になった次第です。

閲覧数:
3,982
回答数:
3
お礼:
50枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

gui********さん

2017/6/411:56:51

'45年8月6日以来、物語ラストは'46年1月…という設定。
単純計算で5〜6ヶ月間、という事に。

まぁ、映画「火垂るの墓」でもありましたが、そうした子ら
は正確な統計も無いまま、野垂れ死にする子が圧倒的大多数
だった。
盗みやかっぱらいで食っていたと言っても、同じマネをオトナ
だって盛んにやっていた時代。しかも、カネ出したって手に
入らない食料です、ましてや子供がオトナと競り合って盗みで
手に入れようなんて、とても「生存競争」に勝てはしない。
生っちょろい話では無いのです。

当時の日本政府はもはやマトモな国家機能なぞ失い、孤児の
福利厚生なんて夢のまた夢。「刈り込み」と称し、警察が
孤児を駆り立てて一箇所に集め、要は「強制収容」で閉じ
込めておく…というのが専らだった。犯罪を起こさないよう
に、というのが最優先で、人権だの児童福祉だのなんてシャラ
臭いモノ、当時の野蛮な後進国たる日本には無かった。
実際、戦災孤児が盗みや犯罪に…というのは日常の光景でした
から。占領軍が見かねて法制度を整えるのは、戦後しばらく
経ってから。

孤児たちの犯罪を咎める権利は、今のヌクヌクと生きる我々
にはありませんが、当時のオトナたちは容赦無くそうした孤児
たちを袋叩き…なんてのが当たり前だった。無謀な侵略戦争に
敗れ、国が荒れ果て切って、みな生きるだけで必死だったわけで。
そういう中では実際には、孤児たちも群れて徒党を組み、オトナ
や他の孤児団と渡り合って生きて行く…というケースが多かった。
その方が生存確率が上がるでしょう。

そして重要なのは、史実では'45年9月に、「枕崎台風」と
呼ばれる大型台風が広島を襲ったという点。漫画原作では
描かれていますが、映画ではカット。
それは被爆地広島を覆い尽くす形になり、多数の死傷者、
被害家屋を出しました。と同時に、洪水で爆心地あたりは
水に浸かり、つまり未だ残っていた放射性物質を、結果的に
洗い流す形になったのです。
なので、あの戦災孤児…原作でも映画でも名無しですが、
設定では「ヨーコさん」といいます…も、ずっと広島の
市街(跡の廃墟)内に止まっていたとは考えにくい。収容施設
に捕まっては、逃げ出す…というのを繰り返すような経緯
だったのではないかと。

そうした孤児を引き取る人も確かにいはしましたが、「里親」
と称してタダ働きの下男下女を手に入れよう…なんてゲスな
ヤカラもおおぜいいた。ろくに食わせず重労働、しかも
女の子の孤児だと、当然というか性的虐待も多発。
でも、そこを出ても生きていけない以上、泣き寝入りという
わけで。地獄絵図です。
無論、慈愛に溢れた里親もいましたし、福祉施設を営む篤志家
もいました。自分の子と、引き取った孤児を、きょうだいと
して育てた立派な人たちもいたりしました。
国が戦に負け、各々の人々の人間性がむき出しになった時代
だったのです。

なお誘拐の件ですが、広島に限らず空襲で役所の戸籍資料の
類も失われ、親戚筋に引き取ってもらうには、当事者たちの
記憶で子と遠くの親権者たちが自己努力…というしか無かっ
たりした。
ヨーコさんの場合、原作でも映画でも、母は死に父も戦死。
生き残った幼い本人が、遠くの血縁関係を知っていたかどうか。
しかも、半年も音沙汰が無かったとなると…。
そして、すずさんの夫の周作さんは元 海軍の法務関係者。
そういう辺りの知識・意識も人並み以上だったはずで。

またシラミは、大きく分けて髪に付くアタマジラミと、服に
付くコロモジラミとがいます。
コロモジラミは服の縫い目や折り目などに卵が産み付けられ、
こちらは風呂や洗濯で駆除可能。また、映画にもあった通り
熱い湯で服を洗えばこれも有効。戦地の兵士や難民、先住民族
などもこれに悩まされます。
アタマジラミは髪に卵が付く。洗髪だけでは駆除は難しく、
薬を使う。また古来より細かい櫛で髪を梳く手もありました。
古代遺跡からそれ用らしい櫛が出土したりして。また、酢で
髪を洗う、なんて手もあったらしい。
原作ではDDTという殺虫剤の名が出ます。敗戦直後の日本の
歴史用語となっているもので、当時大量に使用された薬剤。
今では毒性が問題視されているのですが。


そして…
実はあの子、もっと重要な事に、原爆で被爆しているはずなの
です。例え直接熱線や破片を免れたとしても、その後爆心地で
長時間過ごしていた。放射性物質を体内に吸い込み、放射線
にも晒されていたはずで。すずさんの家族、父の十郎さんも
妹のすみちゃんも、そうやって被爆し十郎さんは死亡、すみ
ちゃんはああして放射線障害を患う身となったのは、劇中の
通り。
なので、本当はヨーコさんも同様に放射線障害になっていて
おかしくないはず。半年後も生きていたのだから、急性症状
では無いらしい。それだったら、あの時期に生きていられは
しませんから。が、身体のどこかに何らかの異常を抱え込んで
いる…という可能性は大きいのです。
そして、放射線障害というのは実は未だに良く分かっていない。
当時、原爆で即死した方、間も無く亡くなった方、何年かして
亡くなった方、今なお必死に症状と戦って生きておられる方、
様々なのです。
ヨーコさんも、そしてすみちゃんも、あの後どうなったかは
描かれていない。そして、それは作り手が敢えてそうしたの
だと私は思うのです。安易な救いや結果を描いてしまっては、
劇中に盛り込まれた苛烈な史実と、今ここの私たちとが、
切り離されてしまう。
そうで無く、あの史実を今ここで私たちが、我が事として
受け止め考え続けるように…と作り手は願ったのではないで
しょうか。ご質問主のあなたが、あの映画をきっかけに、
初めて戦災孤児について真剣に考え始めたように。

あの子、「ヨーコさん」という名は既記の通り原作にも映画
にも出ません。ノベライズ版で初めて付けられ、便宜上そう
呼んでるだけです。それはきっと、あの子はあの子であって
あの子では無い、あの子は誰でも無く、誰でもあるから…
では無いでしょうか。
ヨーコさんは幸運な事にああなれた。が、現実には無残な
最期を強いられた子らが、無数にいた。劇中の晴美さんの
ように、いや、たった今現在だって世界中に…。
なので、ヨーコさんはそうした子らの「象徴」「代表」なの
だと思っています。なので、敢えて名前を付なかったのでは
ないか、と私は考えているのです。
原爆投下後の荒野を、一人で、あんな小さな女の子が生き
延びるなんて、現実にはあり得ない。が、「ファンタジー」
とは、現実をより強化・強調し仕立て直し、本来は見えにく
かったものを、より見えるようにした“映し鏡”であるはずです。
なので、ヨーコさんがああして生き延び人生を切り開いて
もらえた、というファンタジーを敢えて描く事に、意義が
あったはずだ…そう考えたいのです。


長々すいませんでした。
劇場で24回(←バカ)見た人間でして、止まらないのです。

'45年8月6日以来、物語ラストは'46年1月…という設定。
単純計算で5〜6ヶ月間、という事に。...

アバター

質問した人からのコメント

2017/6/5 11:20:20

ありがとうございます!非常に参考になりました!

あんな幼い子が夏から真冬の時期を一人で過ごしていた事になるのですね・・
想像しただけでも何て過酷な・・。

それにしても、戦後の日本はそんなにとんでもない状況だったのですね。

>劇場で24回(←バカ)見た人間でして、止まらないのです。
24回はすごいですね!!
私も劇場で見て、私の中では確実に3本の指には入る程の
好きな映画になりました。

ベストアンサー以外の回答

1〜2件/2件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

rek********さん

編集あり2017/6/215:40:12

そんなに難しく考えることはないです。

無法状態ですから、他人の畑のものを頂いたり、見知らぬお方から恵んでいただいたり、ときに留守のお家から食べ物を失敬したり、なんとでも生きて行けたのです。

今とちがい放射能の影響も知りませんから、浜辺にある貝や、お魚も摂取したかもしれませんね。

服は着たまんまですし、川で洗えばよいのです。髪の毛はさすがに人様のお情けをこうこともあったかもしれません。

トイレがなければ草むらでも、川でも、みんなしてますよ。

こんなところより

親かじいちゃんに聞いたらわかるんじゃないですか?

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

ste********さん

2017/6/216:36:54

③当時は戦争孤児を勝手に連れて帰って育てるとかできたのでしょうか?
戸籍とか、学校とかの手続きはどうなるのでしょうか

住民票されあれば公的行政サービスは滞りなく受けられる為、戸籍の果たす役割なんて「相続人特定」と「婚姻における身分関係の証明」だけです。

だいたい、戦後の混乱期にはよくあった話です。
戦災孤児が街にあふれ、早急な保護を必要としてる状態で「誘拐」とか言ってられる場合ではないでしょう。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo!知恵袋カテゴリ

一覧を見る

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる