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なんで尼子家って毛利家に敗れちゃったの???

Shikanosukeさん

2017/6/313:16:57

なんで尼子家って毛利家に敗れちゃったの???

大内家のボンボンと違って武闘派軍団を要して
銀山も持ち合戦でもじつは毛利家に何度も勝っています。

毛利領に攻め込んだら負けましたが・・・。

なんでいつのまにか逆転され負けてしまいましたか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

武蔵さん

2017/6/313:32:20

カリスマリーダーが亡くなって統制が執れなくなった。

後継者がしっかりしていないと海千山千の国人衆(領地を持った家臣団)を統制していくのは難しい。

お決まりの内部分裂です。煽ったのはもちろん元就です。

応永二年(1395)江州京極高詮の守護代として富田城に入り、出雲・隠岐両国を治めようと決意したのが尼子持久であった。
そして持久の子・清貞が家督を相続し、京極からの独立を図るが失敗に終わる。

二年後、清貞の嫡男・経久は富田城を攻め、富田城乗っ取りに成功した。さらに近隣諸国を次ぎ次ぎと幕下に加え、経久の体制は碓実に強化されていった。
しかしその中で、永正十五年(1518)経久の嫡男・政久は、阿用(大東町)にて討ち死にする。
大永元年(1521)尼子の武威は旭日昇天の勢いでのぼり、安芸・備後・備中・備前・美作・播磨・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐等、山陰・山陽十一ヶ国をその手に握り、尼子氏は全盛時代を迎えた。
天文六年(1537)尼子の基礎を築いた経久も孫・晴久に家督を譲る。天文九年(1540)には、郡山の城主・毛利元就の叛逆が増長するをみかね、元就征伐のため晴久は郡山城へ軍を起こした。
翌年、経久の片腕として尼子氏繁栄に尽力した弟・尼子下野守義勝は、毛利との合戦で戦死する。

天文二三年(1554)経久の二男・国久を長とし、尼子氏のなかで最強の軍団・新宮党に目を付けた毛利元就は、謀をめぐらせ晴久と仲たがいをさせ、国久・誠久父子は晴久に殺害される。
こうして新宮党は族滅、ただ一人誠久の三男・孫四郎が落ちのびたのである。

永禄五年(1560)晴久頓死により、嫡男・義久が跡をつぐが、新宮党亡き後、戦闘能力の激減した尼子氏は山中鹿介を中心とする尼子十勇士の活躍も及ばず、永禄九年(1566)ついに毛利の軍門に降り、富田城は落城する。

質問した人からのコメント

2017/6/10 01:49:41

なるほど!

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