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強訴についてなのですが、弘安元年5月12日に園城寺金堂供養に対し、延暦寺の衆徒が...

tak********さん

2017/6/2703:14:23

強訴についてなのですが、弘安元年5月12日に園城寺金堂供養に対し、延暦寺の衆徒が強訴を行っていますが、なぜ強訴を行わなければならなかったのでしょうか??
その時の時代背景など分かりや

すく説明してもらえると助かります!
強訴を行う理由や、行った原因がよく分かりません(´・_・`)

補足なるほど、強訴の流れについてはよく分かりました。
ただ調べているうちに、神輿が三基入洛していますが、帝王編年記においては、十禅師、八王子、客人の神輿三基が入洛と書いてあるのに対して、一代要紀では八王子、三宮、十禅師、赤山の四基が入洛しているのですが、正しいのはどちらなのでしょう。
またなぜこのような違いが生まれたかも出来れば教えてくださいm(_ _)m

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ohi********さん

2017/6/2712:36:08

同じ天台宗でも園城寺(三井寺・寺門派で円珍を祖))と延暦寺(山門派で円人を祖)とは仲が悪く,対立・抗争を繰り返しています。

弘安元(1278)年5月12日の場合,園城寺金堂供養を勅会(ちょくえ)に準じ,神輿を奉じて園城寺衆徒が京都に入ったのです。勅会とは天皇の勅旨(命令・許可のことで宣旨もほぼ同じ)によって行われる法会のことで,当時は延暦寺・興福寺など限られた寺院にしか認められていませんでした。

ところが,園城寺が勅会に準じて(当時の後宇多天皇が宣旨で許可)入京したため,延暦寺は反発し,勅会の宣旨を取り消させています。

〔参考〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E8%A8%B4
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8B%85%E4%BC%9A%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E5%...

  • ohi********さん

    2017/6/2721:05:40

    『帝王編年記』にしろ『一代要紀』にしろ,後世に編纂された記録類ですから,どちらが正しいとかは誰にも分かりません。もちろん,編纂に際しての原史料はあったはずですが,それを書いた人の見聞や主観も入っていますから何とも言えません。

    このような違いは,原史料の相違に加えて編纂者の価値判断によっても生まれてきます。弘安年間の記録としては,上記のWikiにも引用されていた藤原兼仲の日記である『勘仲記』(建治1(1275) ~永仁2 (1294) 年)も参考にされたらよいでしょう。

    もし,専門論文の体裁をとるのであれば,〇〇記(紀)には,このような記載があるとしか言えず,それ以上でも,それ以下でもありません。

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