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今、カントさんの勉強をしているのですが、

mam********さん

2017/8/515:16:53

今、カントさんの勉強をしているのですが、

1.ものそのもの(もの自体)とわたしたちにとってのもの(現象)はどう違うんですか??
2.理論理性では分からないことを実践的に要求するとはどういうことですか??
3.定言的な命法とはどういうことなのですか??

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fqp********さん

2017/8/516:23:55

カントは古代ギリシャのプロタゴラスと同じ「相対主義者」でした。
相対主義にもいろいろありますけど、「概念枠・相対主義者」です。

カントは時間・空間という「概念枠」と、悟性のカテゴリーという「概念枠」に入らないものは「物自体」と言って、それは私たちには知りえない、といい、私たちに知りえるのは、現象だけであるといいました。

この場合、「物自体」とは、単に物体でなく、霊魂・神・他者などを含みます。

1、物自体と現象はどう違うのか?ということですが、すでに申し上げたように「物自体」とは、私たちの「概念枠」を通しては知ることのできない、すべてを言います。
それに対して現象は私たちの表象と対になるもので、私たちにはよく知っているものです。
物の性質とか。

2、カントは「純粋理性批判」では、その「物自体」を知りえないと言いましたが、次の「実践理性批判」では、「物自体」を認めました。
なぜって、認識論はそのものが知りえるか、知りえないか、という問題ですが、実践論・道徳論では、それが妥当するか、妥当しないか、という問題だからです。
つまり神を想定した場合、それが行為などに妥当するか、という問題だからです。

3、定言命法とは、「・・・・・をすべし」という当為です。
そしてカントの定言命法は「汝の行為の格率を汝のみならず、普遍的な道徳法則に適うよう行為せよ」と定式化されます。
格率とは、行為の個人的な方針とすれば、それが普遍的な道徳法則に適えば、善であり、逆に適わなければ善ではない、というものです。
己の自発的で、自律的で、ただおのれの義務感に基づき、行為しなければならない、というもの。
カントは明確には言っていませんが、彼はドイツ敬虔派の熱心な信徒だったので、言っていることは、定言命法とは実質的に神の命令でした。
その神の命令が「良心の声」になり、私たちは外的状況がどうあれ、その「良心の声」に耳を傾けて、行為しなければならない、というもの。

質問した人からのコメント

2017/8/6 21:51:50

わかりやすかったです!
ありがとうございました ♀️

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kob********さん

2017/8/523:45:45

1、当たり前ですが、我々が認識できるのは、認識できるものだけです。たとえば、人間は赤外線を感知することはできません。しかし、マムシ科の蛇は赤外線を感知できます。よって人間とマムシとでは住んでいる世界がまるで違う現象のように見えます。これはつまり、認識能力によって現象は異なって現れてくるということです。

人間の認識能力は万能ではありません。視覚にしろ、聴覚にしろ、ある程度の幅の中の物しか捉えることができません。つまり、人間の認識能力はどんなに優れた人であっても、人間である限り、限界があるということです。限界があるといことは、限界のこちら側と向こう側があります。こちら側は認識できますが、向こう側は認識できません。この向こう側をカントは物自体と設定したわけです。

なので、物自体はものすごく当たり前のことを言っているにすぎません。限界をもった認識能力の及ぶ範囲を現象とし、及ばない範囲を物自体としたわけです。

2、理論的には神の存在を証明することはできません。しかし、神がいなければ、善悪を決定することはできません。そこで、実際に生活するにあたり、神がいた方が何かと都合がいいので、神がいるかどうかは証明できないけれど、神がいるかのように振る舞いましょうとなります。これが実践的な要求となります。カントは理論理性よりも実践理性が優ると言いますので、かなりの常識人であったことがうかがえます。

3、他人に褒められるのであれば勉強する、というのであれば、もし他人が褒めなければ勉強しないということになります。このように、条件次第でコロコロと振舞いが異なるものを仮言命法といいます。勉強くらいなら、他人からの評価を動機にしてもかまわないのですが、倫理的な振舞いであれば、そういうわけにはいきません。

倫理においては、コロコロと変わらないように、自分自身の根底に根差した振舞いが求められます。それが定言命法で、一切の「たら、れば」の条件を排したもので、ただただ「~すべし」とされるものです。そしてポイントは、この「すべし」の声がどこから来るかということです。先ほどは、自分自身の根底と表現しましたが、これだけでは半分正解で半分誤りです。残りの半分は、普遍的法則ということになります。普遍的法則と自分自身が一致する所から「すべし」の声がやってきます。

2017/8/520:11:17

1,3 については、昔、ブログにまとめた中で触れていますので参考にしてください。

https://blogs.yahoo.co.jp/sabia59_62/50737782.html
https://blogs.yahoo.co.jp/sabia59_62/51498989.html


2についてですが、簡単に言ってしまうと、たとえば、永遠とか霊魂とか神とかの問題を考える場合です。
これらは、いくら純粋理性をもって理論的に突き詰めようとしても解答が出せません。そういう性格の問題ではないということです。では、どうして解決するのかというと、各人の意志になります。信仰の問題になってくるからです。
カントが言うところの、実践理性に委ねられる、実践理性の出番というのは、そういうことです。

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