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関ヶ原の戦いの真相って、どうだったんでしょう? 関ヶ原の戦いって、小早川...

ich********さん

2017/8/2513:48:50

関ヶ原の戦いの真相って、どうだったんでしょう?


関ヶ原の戦いって、小早川秀秋が散々逡巡した挙句東軍に寝返った為、わずか半日で勝敗が決したと言われてきたし、私もそう信じてきました


しかし昨今、あの有名な布陣図も事実とは全く違うし、秀秋は開戦と同時に裏切って、三成は瞬時に敗北したなんて説が出てきました。
そうなると半日どころか、1~2時間で決着したってこと?

いったいぜんたい、どっちが本当なんですか?

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san********さん

2017/8/2522:17:22

結局のところ、まことしやかに語られるほどは正確なところはわかっておらず、断片情報から推理しているというのが現実のようです。

関ケ原の合戦当日の新説については白峰旬氏が主に展開していると言ってよいと思いますが、この方が主に根拠に用いているのは島津家家臣の覚え書きです。

合戦に参加した人物の証言ということで信憑性が高いとは言えますが、記録自体は合戦後20年近く経ってからまとめられたものがほとんどで、どこまで正確に記憶しているか、記述しているかには疑問があります。

例えば、信長の事績の目撃者である太田牛一の信長公記は信憑性の高い資料として扱われていますが、それでも年代などから間違いと思われる部分がありますし、フロイスの日本史においても事実誤認や偏見が見受けられます。

白峰氏はこの島津家臣の覚書を一次史料のように扱っていますが、古い記憶に基づく証言というのは精度を欠くため、二次史料として扱うべきではないかという批判もあります。(信長公記などは二次史料です)さらに、この島津家臣の覚書でも複数の人物の証言が互いに矛盾している部分があります。

島津家臣の体感でいう「一刻もなく崩れた」がどれほどのものかは主観の問題ですし、「時刻」については事実誤認や記憶違いの可能性は十分にあると言えると思います。


各将の布陣については従来説の根拠となる史料が出てこなかっただけに、ゼロベースで考え直す必要があると思います。



個人的には「小早川秀秋は去就を逡巡していたが家康からの問鉄砲によって西軍に攻め込んだ。」という通説の下りは創作で間違いないと思っています。サボタージュ状態だった秀秋が、家康の美濃入りと同時に戦略要地であった松尾山に入城したのは十分な計算と意志があってのことではないかと思います。

  • 質問者

    ich********さん

    2017/8/2620:27:35

    >白峰氏はこの島津家臣の覚書を一次史料のように扱っていますが、古い記憶に基づく証言というのは精度を欠くため、二次史料として扱うべきではないかという批判もあります。

    確かに、古い記憶にはさまざまな錯誤があって当然でしょうね。
    しかし、関ヶ原のように非常に重要な戦いですから、細目に間違いはあったとしても、大筋では正しいんじゃないでしょうか?
    おそらく、戦後も同輩との間で繰り返し関ヶ原の話題は出たでしょうし、20年後に急に思い出して書いたんじゃない気がします。

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質問した人からのコメント

2017/8/31 23:02:27

皆さん、貴重なご意見ありがとうございました。
関ヶ原の戦いについては真相に迫る新史料がまだまだ出てきそうで、それが楽しみです。

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hk1********さん

2017/8/2615:59:39

Q「関ヶ原の戦いの真相って、どうだったんでしょう?」

『関ヶ原合戦の真実』という「白峰旬先生」の本を
読んだのですが質問者様が書かれている通り

・流布されている布陣図は間違い。
・小早川秀秋は開戦前から徳川諸将に組し開戦と同時に
攻め懸かっており「間鉄砲」の逸話は間違い。
・関ヶ原は激戦であったが
開戦時が午前中として石田・大谷勢の壊滅が
「巳の刻(午前10時)」ころとされる。

などが史実、事実のようです。
私も読んで驚いた人間です。

他の白峰先生の資料では
・「石田三成は一時(わずかな時間)ももちこたえられず」
「即時に乗り崩され」
「即時に討ち果たし」といった文言の
史料も多々あることから、通説の我々が思っている
反日におよぶ激戦では無かったようでもあります。

Q「そうなると半日どころか、1~2時間で決着したってこと?」

開戦時がまだ謎とされていましたが
通説の8時頃としても、
とりあえず「石田・大谷勢の壊滅」が
「巳の刻(午前10時)」頃で
そこから「宇喜多勢」の撤退があったり
徳川諸将の追激戦、「島津の退き口」が開始されるので
そう思えば3~4時間は合戦していたのではないでしょうか?

合戦時間に関しては当時の武士たちの感覚として
上記「一時(わずかな時間)、即時に乗り崩され、
即時に討ち果たし」といった処のようです。

Q「いったいぜんたい、どっちが本当なんですか?」

白峰旬先生の検証は書籍からも凄い物で
通説にも疑いを持たれ丹念ですし・・・
白峰旬先生を初めとする昨今の説が有力ではないかな?
と思います。

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yas********さん

2017/8/2615:08:08

いずれにしても石田三成が馬鹿だったから瞬殺されたということです。

それを認めたくないという判官贔屓が小早川秀秋の所為だといってゴネているだけです。

kas********さん

2017/8/2522:01:26

一次資料から検証していった白峰氏の説は明快です。

赤座さんなんて関ヶ原に行ってませんよ。
どうやったら裏切れるのか。

夜の10時過ぎから数万の石田勢が大垣城を出て関ヶ原に向かいますが
雨が降っていたのはまぁ事実でしょう。

現地に行き歩いてみれば分かることですが
翌日、陣を張り柵を組みなんて絶対無理です。
あんな布陣図なんてありえないのです。

霧が濃かったので今でいう8時に始まり10時ごろにはほぼ負けていたのが
真相です。理由は布陣するまもなく小早川が大谷勢に襲い掛かり
その勢いで宇喜多小西が敗走。島津も早々に逃走。

関ヶ原の資料館には三成の大筒が展示されていますが
あんな物10丁あっても野戦では大勢に影響ないです。
大砲じゃないですから。
現物見るとガッカリします。

※三成は好きな武将ですが、自滅したのが関ヶ原です。

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iri********さん

2017/8/2518:34:14

まぁ、どの時点で敗戦が確定したかは
解釈にも寄るので一概には言えません。
小早川の裏切りで大勢が決したとは
言われますが、それほど小早川勢が
重要だった訳ではないと思います。
問題は小早川勢が大谷隊を攻撃した事。
実際には裏切らなかった武将達にも
家康はせっせと寝返りを呼びかけていたし、
秀吉亡き後の豊臣にどこまで付き合うか、
明らかに勢いのある家康側に付くかで
西軍で出陣していても皆様子見の構えで
能動的に戦おうとする武将は少なかった。
西軍の要である島津ですらそうだから
数少ない本気で西軍の為に戦う部隊である
大谷隊が小早川の寝返りによって崩れた時、
すでに大勢は決したから敗北と言う人もいるし、
三成が逃げるまでは敗北したとは言えないと
考える人もいるから時間は決めようがないね。

tar********さん

2017/8/2516:09:02

誰も見たことが無いので真実など分かりません。
歴史はあくまで現存している資料などに基づいて想定しているだけです。
因みに私は歴史が大好きです。否定しているのではありませんので誤解なきよう。

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