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日本史の質問です なぜ、幕末に攘夷派の長州藩は攘夷の不可能を悟ると倒幕派とな...

wes********さん

2017/10/921:38:55

日本史の質問です
なぜ、幕末に攘夷派の長州藩は攘夷の不可能を悟ると倒幕派となるのでしょうか
攘夷が不可能→倒幕という経緯がわかりません
また、薩摩藩において藩主の父、島津久光氏は公武合体派。

下級武士の西郷隆盛、大久保利通は倒幕派ですが、なぜ、下級武士が支持してる考えのほうが優先され、薩長同盟に至ったのでしょうか?

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ojy********さん

2017/10/921:58:25

>幕末に攘夷派の長州藩は攘夷の不可能を悟ると倒幕派

時系列が違います
攘夷は関係ありません
松蔭の弟子たちは最初から倒幕派です

長州は最初は公武合体の開国派でしたが
弟子たちが政権を取り攘夷倒幕となります

久光はつんぼ桟敷に置かれてましたが
最終的には倒幕派に変わりました
慶喜と揉めたのが原因かもしれません

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abr********さん

2017/10/1013:08:13

攘夷が不可能→倒幕
自然な流れかと。

mar********さん

2017/10/1012:53:55

そこは教科書のページ数の制限の関係ですっ飛ばしているだけです。
「攘夷が不可能→倒幕」は起きた順番を述べているだけで、因果関係は大してありません。

1864年以降の流れをもう少し細かく言うと

①四国艦隊下関砲撃→攘夷の不可能を知る
②第一次長州征討→幕府に徹底恭順
③高杉晋作の功山寺挙兵(元治の内乱)→徹底恭順派を追い出して武備恭順に変更
④幕府が第二次長州征討を検討→武備恭順から徹底抗戦に変更
⑤薩長同盟
⑥第二次長州征討で長州が勝利→倒幕の可能性が見えてくる
⑦四侯会議→薩摩の西郷・大久保・小松らが倒幕派に→薩摩と長州が討幕で協力

で、①~⑦の最初と最後をつなげて「攘夷が不可能→倒幕」としています。
これだけ長い話を一言でまとめてしまったので、「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、因果関係がよくわからない文章になってしまいました。


薩摩は長州と違って思想で対立せず、利害が一致すれば協力して動くので、〇〇派で分けるとかえって分かりにくくなります。
島津久光は当初、父の斉興やその重臣と親戚たちに操り人形にされそうになるなど、藩内の勢力が弱く、彼らを追い出すために大久保ら若い志士たち(精忠組)を重用しました。
西郷・大久保は⑦の段階まで、島津久光の方針に従って動いています。
(従来は⑥の薩長同盟が倒幕のための同盟と考えられていましたが、それだと質問者様の疑問の通り、辻褄が合わないので、最近では単に薩摩が長州の名誉回復に努力するという約束なのではないかと考えられています。)

よく誤解されますが、幕府から見ると
×薩摩の公武合体運動=幕府の味方
〇薩摩の公武合体運動=幕府の権威を脅かす動き
です。
そのため、京都での薩摩の政治活動は、徳川慶喜・会津・桑名などから反発を受け、薩摩は朝廷・幕府・雄藩の話し合いによる政治運営は不可能と考え、倒幕に向かいます。

coo********さん

2017/10/1000:29:34

長州は元々が尊王思想が強い。

開国に転じたものの、肝心の孝明天皇が外国嫌いで強硬に攘夷を叫んだのでそれの為に実行しただけよ。

孝明天皇は会津の松平容保に信を置いてて側用人的な立場になってたから公武合体とか開国支持に向かってくんだけどその過程で長州や攘夷派の公家を朝廷から叩きだしたんで禁門の変とかを起こす、果ては攘夷が昂じて馬関戦争をやらかす。

この後にイギリスに何を吹き込まれたのかが肝だけど、長州ファイブとかが植民地主義思想仕込まれて帰って来てから討幕に転じてると自分は見てる。

因みに長州ファイブを欧州に送り込んだのはグラバー。

一方薩摩、西郷は天皇の正統性に拘る思想が有って、そこから”南洲”とまで呼ばれてる。

で、明治天皇からの直系が南朝天皇な訳で、そこいら辺の状況の絡みで岩倉や三条が絡んでの孝明天皇暗殺や明治天皇すり替えも言われてる。

教科書では幕府の長州征伐の拙さで薩摩が幕府に見切りをつけた事になってるけどそんなん嘘っぱちで、幕府はアメに騙されて旧式の武器押し付けられてんだから話にならねえよ。

この辺のいきさつだけで本が2冊分書けるわ。

開国以来幕府側も国家の近代化の為に様々な改革や整備などの種蒔きをしていて、土台自体は出来て居たし権力者が幕府でもいい。

でもイギリス側からすれば道徳的に幕府でなく長州や薩摩を利用したい。

長州には権力や利権、薩摩には天皇家をぶら下げたって事だし、このあたりの利害調整が出来たんで同盟に至ったって事。

長州や薩摩の現実の後ろ盾はグラバーなので、このお方のお仕事、薩摩の変心、勝と西郷の会談内容さえ分かれば幕末の謎の部分の殆どははっきりするんだろうけど、まあダメだね。

アメリカ、フランスは箱館戦争末期迄幕府支持で、イギリスの説得で新政府側に寝返ってる。

薩摩、長州を操ったのは全てイギリス。

まあ、”信じる信じないはあなた次第”みたいな話になっちまったけど、孝明天皇暗殺と明治天皇すり替え以外は殆ど間違いないと思う。

質問があれば受けますのでどうぞ。

rum********さん

2017/10/922:21:21

長英戦争、薩英戦争で、長州、薩摩両藩はイギリスには到底敵わないという現実を突きつけられます。
それと同時にイギリスの傘下に入れば討幕は容易であると悟りました。
藩内はいずれもいくつかの派閥が有りましたが、この戦争(実際には軍艦の砲撃)を通じてイギリスの走狗となっていた討幕派が力を得ます。
イギリス東インド会社は薩長土肥を中心とした西日本のニートの若者を洗脳して武器と資金を与えて藩を乗っ取りました。
これが薩長同盟につながります。

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