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中国最古の王朝といわれる「夏」は、史記などにその存在が 記されているものの、...

rj2********さん

2017/11/110:40:40

中国最古の王朝といわれる「夏」は、史記などにその存在が
記されているものの、遺構などは見つかっておらず、考古学的には
実在した証拠がない、とされています。

一方、(時代はずっと後年ですが)日本の「邪馬台国」と呼ばれる国も、
中国に使節を送ったらしいことが三国志の魏書に記載されているだけで、
日本国内には記録がなく(そもそも文字がなかった)、出土物もないので
その場所すら特定されていません。

ということは、考古学的には実在が確認されていない、という点では
邪馬台国も「夏」と同じような状態なのでしょうか?

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kuw********さん

2017/11/519:22:22

隋書《卷八十一列傳第四十六》には

「都於邪靡堆,則《魏志》所謂邪馬臺者也」


南北朝時代後期から、隋・唐・五代・宋初かけて使われた読み方(中古音)で

「邪靡堆」は「ヤマト」と読む。

そして、7世紀頭の倭の都は飛鳥京であるから、この「ヤマト」は奈良盆地を指している。

そして、奈良盆地に魏志で云う「邪馬台国」のことだと書いている。

さらに、奈良県桜井市の「纏向遺跡」は他の遺跡と比較して3倍の規模があり、一定方向に建物が並び、農具がない代わりに土木用の鋤鍬が出土することなどから「日本で最初の都市」とみなされている。


さらに、他地域から搬入している土器の割合が高く、九州から関東までの広い地域の土器が出土していることから中心的な物流拠点と考えられる。


さらに、決定的なのは

最古の最大の「前方後円墳」である「箸墓」の周濠から出土した土器に付着した炭化物を科学的に測定したところ、240~260年という結果が出たことだ。

▼国立歴史民俗博物館研究報告 第163 集 2011 年3 月

「古墳出現期の炭素14年代測定」172~173頁

春成秀爾 他

「古墳開始期にかかわる桜井市纏向遺跡群出土試料などの炭素14 年代測定を系統的に実施した。
測定結果は日本産樹木年輪の炭素14 年代測定に基づいて較正し,土器型式および出土状況からみた遺構との関係による先後関係から,箸墓古墳の周壕の「築造直後」の年代を,西暦240~260 年と判断した。」

「箸墓」をスケールダウンした同型式の「前方後円墳」が全国各地で一斉に造営されて、西と南は筑前と豊前、東と北は下野、陸奥まで広がっている。

このように「前方後円墳」という規格化された古墳が規模による階層がみられ、奈良東南部に最大規模の古墳が集中することから、畿内の優位性があり「古墳時代」と呼称されて「ヤマト王権」が確立した時代というのが定説である。


つまり、3世紀前半には「ヤマト王権」があって、邪馬台国は「纏向遺跡」であることが確実視されています。

  • kuw********さん

    2017/11/519:27:16

    未だに「九州説を唱えている」のはネット上でも素人か、「邪馬台国の会」のような素人学者集団ぐらいなものです。

    考古学者や歴史学者の間では「邪馬台国」は「畿内」にあることで見解は一致しています。

    ● 都出比呂志氏 大阪大学名誉教授

    『古代国家はいつ成立したか』(岩波新書,2011年8月)

    「大和は三世紀前半から政治の中心地であることは確かで・・・・
    卑弥呼の館は、大和の地で見つかった大型建物の跡、纒向遺跡であることはいうまでもありません。」

    ●大塚初重氏 明治大学名誉教授、元考古学会会長

    『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書,2012年4月)

    「よほどの色眼鏡をかけなければ、邪馬台国は北部九州にあったとはいえない」

    「王権存立の客観的な歴史的条件を考えれば、畿内地方こそや邪馬台国存在の想定地域であり」


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ren********さん

2017/11/614:09:27

「夏」は存在していたころは記録そのものがなかったので正直伝説が入り混じった状態で史記で書かれました。一応「夏」があった時代と思われる時代の遺跡、二里頭遺跡があり「夏」があったとされる場所での遺跡なので「夏」の遺跡ではないかと考えられています。ただ殷と違い文字による証拠が存在しておらず現在分かっているのは「夏」とおぼしき国家の遺跡があったのであって、「夏」の遺跡があったわけではありません。
「邪馬台国」に関しては「夏」と違って文字で中国側で記録されているので実在性そのものは確実です。ただ最大の問題である場所がいまだにわかっていないのですが最近では実は既に判明しておりそれを公表してないだけという説があります。

afd********さん

2017/11/116:21:19

夏は4000年近く前の文明が始まったころの話しですからまともな文献も当時はありませんでしたし、証拠となる物証も出にくいでしょう。でも二里頭遺跡は夏じゃありませんでしたっけ?

それに比べて邪馬台国は1800年前の話しですからね。中国でいえば三国志の時代で、魏志ってあの曹操の国です。蜀には諸葛亮孔明がいましたし、孔明にいたっては卑弥呼と数年しか生まれ年がかわりません。その時代の中国の書物に「邪馬台国」が載ってるんだから、あったと考えるのが普通です。

問題は「なぜ邪馬台国がわからなくなってしまったか」です。日本書紀には魏志の引用があったり、神功皇后記に「この時代に魏に使いを送った女帝がいた」とか、思わせぶりなことを書いてます。だから邪馬台国や卑弥呼のことは知っていたはずです。なのに書いてない。これは日本書紀編纂者が邪馬台国を隠したという証拠に近いと思ってます。なぜかはわかりませんが。

shi********さん

2017/11/114:46:15

考古学的には実在が確認されていな
い、という点では邪馬台国も「夏」
と同じような状態なのでしょうか?

【いえ、違います】

考古学的な観点では邪馬台国は文字
資料があり、夏王朝には文字資料は
ありません。

つまり、【史紀】や【竹書紀年】の
夏王朝についての記述と【魏志倭人
伝】の邪馬台国についての記述は信
憑性が違うからです

夏王朝についての記述は
【史紀】と【竹書紀年】にあります

ただ、
司馬遷は【史記】を紀元
前97年に書き始めています。

【夏王朝】は司馬遷の時代
から2000年前の時代設定です。

また、
【竹書紀年】は作者不明です。

史記も竹書紀年も中国の伝説時代か
ら始まっているので、2000年後の司
馬遷の史記から、夏王朝の実在した
証明には出来ません。

同じ事は舎人親王の
日本書紀にも言えます。

日本書紀では、日本書紀の編集から
約1400年前に神武天皇が即位したと
書いてありますが、それは考古学的
には神武天皇の実在の証明には出来
ません。

聖書の歴史に関する記述と同様に何
千年も後の人物の神話を交えた記述
は、考古学上の文字資料には出来ま
せん。

反対に
魏志倭人伝の著者の陳寿は
邪馬台国と同時代の人物です。

その為、魏志倭人伝の邪馬台国の記
述は考古学的な文字資料になります

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c62********さん

2017/11/112:26:26

畿内でも九州でも、その時代に栄えていたらしい遺跡は発掘されてますよ。
ただ、そのどれが邪馬台国にあたるのか特定できていないだけです。
邪馬台国の場合は文字として記録が残っているのですから、(どの程度の勢力規模であったかは別にして)存在していたことは確かです。

mek********さん

2017/11/111:05:44

いや、夏王朝の場合は、二里頭遺跡がほぼ特定されています。邪馬台国の場合は、それが邪馬台国に関連する遺跡だと特定されていません。遺跡として残るような大規模な都市があったかどうかも分からない。魏志倭人伝の解釈に四苦八苦している有様で、どうにも特定できない。とても同じような状態とは言えません。

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