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突然、失礼します。 回といくつかご拝見させていただきましたが、大変真面目な方...

gmo111111さん

2017/11/1420:11:20

突然、失礼します。
回といくつかご拝見させていただきましたが、大変真面目な方で仏教を学んでる方のようなのでご質問いたします。

法句経 「諸法無我」の個人的感想をご批評してしていただきたいのですが。
諸法無我、すなわち、自分のものではないものの我は「不定着」で「変化する」ゆえに、物も他人も自分ではどうコントロールすることもできない。自分の思い通りには必ずならない。


どうでしょうか?この解釈に一言いただきたいです。お願いします。

補足回と→回答、でした。
すみません。

この質問は、catkuutyuu3kaitenさんに回答をリクエストしました。

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catkuutyuu3kaitenさん

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2017/11/1512:31:18

こんにちは^^

私は僧侶でも学者でないので、そのつもりで読んでくださいね。
私の考え方で少し回答してみたいと思います。

釈尊滅後に、釈尊の述べられた教えを直弟子たちが口誦し”教え”が結集で纏められました。これを”原始仏教”(ブッダの教え)と想定し、文献学・考古学の知見から最も古い時代に遡れるパーリ仏典の中の古層の経を基にして、”ブッダの教え”はどういうものであったのか?ということを探っているのが、原始仏教探求者です。

文献学はとても緻密です。
文献を分析する様々な手法があります。

・引用関係からそれぞれの経文の時間的前後関係を推し量る
・ヴェーダ文献やジャイナ教文献との比較に拠り、”仏教術語”と他宗教と共通する術語の異同を分析し、仏教術語が形成された背景を推しはかり、その術語を基にして教文の時代的前後関係を考える
・時代に拠って変遷が有る文法や語と句、そして語の音韻の変化などから、経文の時代的前後関係を考える
・etc...

・・・・・・・・

まず、主だった経を古いと想定される順番に並べますと、最初期の経文には「仏教術語が非常に少ない」ということが分かります。

これは当然のことで、ブッダはバラモン教用語や多くの人が理解可能な俗語を巧みに使って、自身の教えを述べられていたことが想定できるからです。

「無常」や「無我」も仏教術語と言えます。
後代になって成立した経になればなるほど、当たり前のように無常や無我という術語が使われるようになりますが、ここに落とし穴があります。

一旦、術語という使いやすくもある記号として概念化されてしまうと、術語使用者の理解がブッダあるいはブッダの直弟子たちの理解とは違っていても、「無我」という語だけで分かったようになってしまい、ブッダの説法が説かれた状況・背景・対話の相手、話題などの文脈を無視して、術語だけが独り歩きしてしまい、ブッダのお考えとお気持ちとはずれた考え方になってしまう可能性があります。

ブッダの教えを現在入手可能な資料・史料から推し量るためには、ブッダが勧められた生き方をして、多くの経で繰り返し説かれているニッバーナを求め修行し、とりあえず、律にあることは厳守して生活してみる、そこから何かが見えてくるのではないか?と考えています。

ブッダの教えの目的は「苦を滅すること」だということは、多くの仏教信者さんの賛同を得られることかと思います。

そして、苦を滅する方法の答えにおいて、重視されているのはニッバーナであるということも否定は出来ないと思われます。

つまり、ブッダの教えにおいては

・「苦」(ドゥッカ)

・「涅槃」(ニッバーナ)

についての理解が重要になってくると考えられるわけです。

ブッダは”ものごと”の性質ではなく、「人間のこころ」に注目しています。

初期仏典における「無我」とは、”煩悩や我執を離れたこころの状態”を指し、それはニッバーナのことであり、自由自在な境地のことだと考えています。

(自分で自分を縛り付けているという理解です。”思い通りにならない”というのが”苦”の定義に含まれますが、この意味は重いです。。。”カレーが食べたい”と思うことがありますよね。それは”自然”に発生する欲動です。自分の意志で”カレーが食べたい”という欲動をもたらしたわけではありません。そういった次元レベルでも”思い通りにならない”という語句が使われていると考えられます)

ブッダの出家理由は、宇宙や物質の成り立ちを解明することが目的ではないですし、「(なにかしら)善なるものを求めて出家した」という南伝版大般涅槃経の言葉に注目しています。

「諸法無我」は後世の僧侶が創った仏教述語じゃないか?と考えています。

諸法(現象世界のすべて)が無我だろうがそうではなかろうが重要ではないのでは?
伝統宗派の人には怒られそうですがw

無常や無我を知っても、何もならないと考えています。
(実体験上。重要なのは瞑想を中心とする”行”ですね)

質問した人からのコメント

2017/11/16 11:48:06

ありがとうございます!大変参考になります。

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naka_photo00さん

2017/11/1505:05:33

「法」とは「ダルマ」、つまり認識の対象となるすべての存在のこと。
「我」とは、ある存在をそのものたらしめる不変の本質のこと。

「諸法無我」とは、「一切の存在は因縁によって存在し、不変の本質を有しないこと」の意味です。
因縁によって存在するものは、因縁が消滅すれば、その存在も消滅します。

「法」とか「我」を現代語の意味でとらえてはいけませんよ。

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