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キリスト教ではしばしは神の愛を自己全的献身の無償の愛といいます。

takai_kichiさん

2017/11/1509:51:51

キリスト教ではしばしは神の愛を自己全的献身の無償の愛といいます。

この所謂キリスト教で言われる「愛」と、子供に対する「親心」の違いとはなんやだと思いますか?
同じだという意見もあるかもしれませんが、違いを見つけるとしたらどこでしょうか?

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doltotiさん

2017/11/1803:20:02

あなたの望む回答とは違うだろうけど、

しばしば「神の愛=ギリシア語のアガペー」と言われるが、必ずしも正しくない。ギリシア語版旧約聖書を見ると、アガペーはヘブライ語のアハバ「愛」に対応するもので、我々が想像するごく普通の「愛」だ。

旧約聖書で「神の愛」を表すのは、むしろエレオス「慈しみ」だよ。ヘブライ語ではへセドというのだけど、この単語は周辺の言語にはない、ヘブライ語に特有の単語だとされる。

ところが、新約聖書のギリシア語に、エレオスはあんまり出てこない。旧約聖書であれほど出てきたエレオスが、なぜ新約聖書では出てこないのか? 現状、この問題をきちんと説明できた学者はいない。まあ、ある学者の説を紹介すれば、「神の愛、慈しみ」のエレオスは、新約聖書ではアガペーに吸収されたという。

ということは、新約聖書のアガペーには 2 種類あるということだね。1 つには、我々の想像する一般的な意味での「愛」。もう 1 つは、旧約聖書で「慈しみ」と訳されていた「神の愛」。

---

で、もともとギリシア語のアガペーに特別な意味はなかった。というより、そんなに使用頻度の高い単語ではなかったんだ。

でも、哲学者のプラトンが「真理を愛する」というのにエロースという単語を使い、それ以外の愛、例えば「家族愛」のようなものにアガペーを当てた。

ギリシア語版の旧約聖書はプラトンの用語法を採用している部分が多く、ヘブライ語のアハバ「愛」にアガペーを当てているのもそのせい。「ヤコブはラケルを愛した」もアガペーだね。

この点において、アガペーを「親心」と考えるのも間違いではないし、それは「慈しみ」と重なる部分もあるだろう。

  • doltotiさん

    2017/11/1803:24:12

    そうそう、thelamb827 さんの書いた「4 つの愛」を提唱したのは、C. S. ルイスではなかったかな。『ナルニア国物語』や『悪魔の手紙』の作者ね。必ずしも聖書による分類ではない。

    ルイス自身は熱心なクリスチャンで、私も好きな作家だがね。

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lucifer316sさん

2017/11/1715:21:56

親心で正解ですよ。
人間よりもずっと昔から存在しているのが神様のことです。

私たちは後から生まれた魂であり命なのです。

2017/11/1701:19:38

子どもに対する親心としての愛は、自己愛と重なるのではないでしょうか。
親にとって自分の子どもは、(ある意味)自身の分身ですからね。したがって、この愛(親心)は夫婦間には働かない。

キリスト教での神の愛はアガペー(人類愛)といわれますね。
この愛は神からの一方的な恵みによるもの。これを人類間で行う場合は、神の恵みを分けるということで、隣人愛といわれますね。自分を愛するのと同じように他者を愛せと。そこには、血を分けた肉親だから、身内だからといった区別はない。
なので、信徒はみな“兄弟(姉妹)”ということになるのでしょう。

kokuyo2017さん

2017/11/1701:17:29

まず水を指すようで申し訳ありませんが、第一に、>キリスト教ではしばしは神の愛を自己全的献身の無償の愛といいます。
>これは違います。
大体、自己全的献身の無償の愛等とは、一体、誰が言ったのでしょうか?
出典元は、どの本か、どの人物か、どの聖書の記述からなのか
ご質問上の「自己全的献身」の出典元も恐らくは何処にもない只の造語だと思いますが、仮に自己全的献身とうものがあったとしても、聖書には人間は肉体と霊から成っていて、自己全的献身等と言う行為を本気でするなら、当然人間には罪がありますし、神様は清いお方ですので、肉体を完全に滅ぼさないといけなくなります。
つまりどうせ、「自分自身のように主なる神を愛せよ」や、「自分と同じように隣人を愛せよ」等の教えを本当の神様も畏れずに自分流にアレンジをして勝手に作った造語の「自己全的献身」等と言う誰も出来ないような文字による刷り込みをし、本当に神様を信じている人達を惑わそうとしておいでのお約束の釣りでしょうけど、そんな事を、因みに絶対等と聖書は教えていません…。

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ID非公開さん

2017/11/1700:25:38

私が子供の頃に教会で聞いた話です。いい例だと思うので。


ある母親が自分の子供には良いものを食べさせたいと思い、有機で育てた食物のみ(今でいうオーガニックフードですね)で子育てをしていました。30年も前の話なので、今より大変だったらしいのですが、これが「親心」に当たると思います。

ですが、その母親はキリスト教徒であったので、ふと気がつきました。

自分の子供に良い食べ物を与えていることで、自分は自分の子供だけが素晴らしいと、他人の子供よりも自分の子供は優れていると思っていること、そして、自分もその優越感を感じていたことに気が付いていしまいました。それからその母親は、オーガニックフードに奔走するをやめてしまったそうです。


私自身はこの話を聞いたとき、子供ながらに感動しました。
ここで気が付く方はキリスト教の教えを理解していることになりますが、私がこの話をすると、ほとんどの方は「?」と、意味がわからないようです。

つまり、「博愛」です。

自分の子供に限らず、すべてを平等に愛すること、これがキリスト教の説く「愛」で、神の愛です。


他人や他人の子供を愛するのは難しいことですね。なぜなら、普通は見返りがあると期待して、「愛する」ことができると思っているからです。
「無償の愛」とはそれの逆のことではないかと思います。見返りを求めず、期待をせず、愛しているからこそ自由にしてあげたいという思いが「愛」ではないかと思います。それで人間は神の愛によって「自由」にされていますよね?神が世界を決めるのではないのです。


無償の愛を注ぐこと(博愛精神を持つこと)は、神の愛を感じることにも等しいのではないかと思っています。

cesfunctionさん

2017/11/1619:11:23

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