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北条は最後まで秀吉に抵抗しましたが 小田原攻めで北条が勝てる要素はあったので...

rum********さん

2017/11/2012:05:13

北条は最後まで秀吉に抵抗しましたが
小田原攻めで北条が勝てる要素はあったのですか?
何故北条氏は秀吉に服従しなかったのですか?

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kaz********さん

2017/11/2319:05:05

あと一ヶ月籠城してれば勝てたと言われてますしもともと小田原城に籠城前に屏風山ってところで交戦しようとしてたっぽいんですが…

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ベストアンサー以外の回答

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ポアロさん

2017/11/2022:09:34

世の中っていうのはかくも生き延びるのが至難なんですよ。

北条は織田信長の同盟国でした。【対武田】包囲網の一翼ですね。
武田が滅びたあと、上野に織田の全権として滝川一益が赴任してきます。

これは信長の名代として関東と奥羽の平定を委任されてのものです。

当然織田家は同盟国の北条と結託し、関東で北条に敵対していた、宇都宮・佐竹・里見等を滅ぼすでしょう。そして奥羽の諸侯にも呼びかけをし、参陣しなかった者を敵対勢力と認じて次の討伐の対象とする算段です。

北条にとっては天下はバラ色・順風満帆、どう転んでも自家には恙ない未来がそこまで来ていました。
織田政権の元、関東の王として存続できる未来しか見えなかったのです。

そこに降って湧いたように”本能寺の変”が勃発しました。

さて、昼過ぎの霜柱の様に織田家の勢力が雲散霧消してしまったあとの関東では、当然北条は自己の戦力のみで体制を維持しなければなりません。逆に言えば「関八州完全支配」という自家の夢がいきなり現実味を帯びたという事もあります。
元より戦国の武家である北条氏はここで少しでも地盤を大きくするという、戦国武将の習い性みたいな行動に打って出る訳です。
しかしこの時点で【中央に反する北条】という形を作ってしまいました。

同じく本能寺の時死にそうになっている二つの武家がありました。
上杉と毛利です。
彼らは北条とは違って信長と対立する方向で対戦していたのですが、もはや滅亡もまじかという局面に追い込まれていました。
それが明智の謀反で九死に一生を得られたのです。
そこで彼らは中央には二度と逆らわないという方針を選びます。
織田亡き後の次政権である豊臣氏には、真っ先にひれ伏すが如き体裁を厭いませんでした。
上杉と毛利は【中央政権に臣従する家】という形を見せる事で戦国の終焉期を乗り切る事に成功したのです。


本能寺さえなければ上杉と毛利は滅び、北条は天下に名を高めそれからも存続したのは自明ですが、
一つの歴史的ブレが発生した結果、北条が滅び、上杉と毛利が残るという事に逆転してしまったのです。

oda********さん

2017/11/2021:06:08

いろいろな意見等ありますが 私なりの回答をしたいと思いますので よろしくお願いいたします。
【何故秀吉に服従しなかったのか?】 ①北条氏政は 織田氏と好を通じ、徳川と姻戚関係、この時期に台頭してきた伊達氏と同盟を結びます。
本能寺の変 後 渦中の織田氏を関東から追い払い 関八州独立国の擁立と同盟関係図により ここから中央をまとめた秀吉と 対抗できると算段した。
②1586年急速に天下統一を目指す秀吉に家康が臣従。1588年 秀吉より北条氏(氏政)に上洛要請(臣下の礼) 仲介として徳川が入り 姻戚関係にありながら起請文を出し 氏直が氏規を上洛させる。この同時期に氏政は政務から離れ形状隠居 。1589年 名胡桃問題において 板部岡が上洛し 領土分配の調停の了承と和議を取り付け その条件に再度 氏政の上洛を約束する。その後 名胡桃に攻撃した猪俣氏の弁明について氏直・氏規がするも首謀者を懲罰にせよという辞令が下り さらに氏政の上洛要請をする。云わば氏政が上洛した際に 更迭もしくは 切腹の可能性もあるのは 隠居後も陰で 氏政が政務を取り仕切り
あくまでも臣下に下る気配がない。
③北条氏の理想である撫民策と 関八州独立国家=東国武家社会が ようやく氏政の時から 始まり 中央に支配されない 独立国家が形成されていることから 中央からの臣下の礼に対する要請を拒み あくまでも
徳川・伊達・北条で中央からの支配に対抗する または 中央(秀吉)から進撃を受けても 北条は 小田原城にて 天下統一を目指す秀吉を 撃退し関八州を守り 誇示しなければならい 矜持がある。 これを貫こうとしたのは 氏政・氏照のような気がします。 天下統一対 関八州独立 それが良いのか悪いのかは 判断つかないところです
④ 上杉・佐竹が秀吉側に付き 今更 臣下の礼で 氏政がその相手に頭を下げれるか?と思うのは これは私の勝手な見解です。

【小田原攻めで北条が勝てる要素】 総構えを構築しますが 云わば未完成で 戦になります。 22万とも言われる秀吉対 小田原城籠城は6万とも 通常であれば北条側は3年は 籠城できると 算段したようです 主要にならない城はもぬけの殻にし 田畑を焼き払い 兵糧は小田原へ あくまでも小田原城にて交戦すること そして 交通の要である 支城に兵を置き 持久戦に持ち込むことで 時間を稼ぐ。しかし支城早期落城や 情報のミスにより 秀吉側は 兵糧が早期に底を尽くなどあります。 これまで優勢な北条が 劣勢になり 一致団結の重臣だった者が 計略により裏切り内部崩壊に繋がり 疑心暗鬼にする計略は 想定外です。小早川隆景の助言説有り。また 焼き払った 土地に苗を埋めた 兵に 秀吉が それを褒め称えるのも 籠城戦マニアと思います。 勝てる要素を想定した 北条は それ以上の余裕綽々な秀吉に 対抗することができなく 計略にて落城します。 信玄、謙信にも屈しない(相手から言えば落とす気はない) 小田原城を かつての名将から難をしのいだからと 過信してしまった氏政の失態は 最早言うまでもありません。 氏直は器量有りけど 虚弱であると 北条記にもある通り 近親交配がネックです。 しかし開城や和議も氏直が まとめています。

【結論】北条氏政の失態ですが、それは北条哲学に基づく矜持であり それを北条滅亡とは 考えづらいです 。 また氏政の首を跳ねる役は 氏規であり 秀吉に忠誠を誓う意味深なとこもあり 狭山藩が後に 氏直死後 産まれたかも知れません

kan********さん

2017/11/2018:08:53

編集あり2017/11/2022:38:33

家康と同じく有利にことを運びたかったからじゃないですかね。家康は小牧・長久手の戦いで世間に「家ちゃんやばくね?」と、印象付けて、それを秀吉も汲み取ったために上洛に際して、妹を正室(という名の人質)と、母を妹のお見舞い(という名の人質)とした訳ですから、関東の雄が降るなら、そんくらいしてもらわないとと、北条は思っていたかも知れません。小田原に攻めかけてきたところを籠城で長引かせて引かせれば、北条の勝ちと世間に見せられるから、そうしといて有利に和睦しようと考えていたけど、予想以上に秀吉は凄かった。失敗した。とか。

nic********さん

2017/11/2016:22:53

北条氏政は家康と手を組んで、家康は秀吉に対抗し氏政は関東制圧に乗り出しました。
そのため、最初から秀吉の心象はあまりよろしくなかったのです。で、家康が秀吉と和議を結んだあたりから雲行きが怪しくなります。
秀吉は、セレモニーとして全国の大名を動員する天下統一の総仕上げの合戦を望みます。そのターゲット候補が、島津、北条、伊達です。
島津は最初にヤられたので、寛大な処置で許されました。残るは北条か伊達です。
氏政も秀吉への服従はやぶさかではなく、上洛の交渉を始めていました。しかし、条件や日程が折り合わずなかなかまとまらないうちに名胡桃城でのトラブルが発生し、これを絶好の機会と判断した秀吉は北条攻めを開始したのです。
そして伊達も小田原に参陣して秀吉に臣従したことで北条の味方はいなくなりました。
北条から見たら、手を組んだ家康がいつの間にか梯子外して気がついたら「反豊臣元凶」というレッテルが貼られていたというところでしょうかね。

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