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おはようございます。 「本能寺の変の黒幕が、実は家康で、長男信康の復讐の可...

マリンブルー城攻めさん

2017/11/2306:28:31

おはようございます。

「本能寺の変の黒幕が、実は家康で、長男信康の復讐の可能性はありますか?

穴山梅雪は、秘密を知ってしまったために抹殺されたとか。あり得ますか?



という質問を挙げたものです。沢山回答をいただき、驚いております。

風邪から発熱、頭痛のため、返信できずに申し訳ありませんでした。

回復しましたので、皆さんの回答、読ませていただきました。

しかし、簡単に解決できるものばかりです。

①なぜ伊賀越えをしてまで帰国したか?

あたりまえです。自分が黒幕だと知られたくないためです。伊賀は、織田信長に恨みを持っています。恨みを持つ者同士、結託して、机の下で手を握っていた可能性もあります。

②なぜ、帰国後、軍勢を出したが、鳴海まで来て引き返したのか?

明智や、織田重臣団の争いに勝ったほうに加担するためです。明智が、信長殺害後、まごついてたのは、実は、徳川家康が、大軍を率いて合流するのを待っていた、とも考えられます。

ところが、秀吉が思いがけず、早く引き返してきてしまい、明智軍は一度の合戦で壊滅してしまった。細川、筒井などが、信長の重しがなくなったのに、明智に与しなかったのも、誤算だったかもしれません。

皆さんに回答をいただき、自身の妄想を打ち消したかったのですが、逆に、妄想が膨らんでしまいます。

どうしたらいいですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

bir********さん

2017/11/2309:09:22

徳川家康が本能寺の変の共犯者なんではないかと
疑ったのは何も質問者だけでは無く、当世の
歴史人物、羽柴秀吉ですら、そう疑ったのです。
穴山梅雪の死のこともそうだが根本的に
家康が本能寺の変で生き延びていること、
明智がガチで家康の命を取りに行っていない
のが疑惑の因です。
秀吉と家康は直接、合戦に及ぶまで関係悪化
したが小牧長久手の合戦を引き分け、に決着
つけるうえでの和睦に至る諸交換条件の中で
家康は秀吉に臣下することの交換条件として
秀吉は家康への本能寺の変の共犯疑惑を
以後、不問とすること、が、あったのでしょう。

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横入りで失礼します。

質問者さんの質問(といいますが前回の質問の回答に対する反論)で②のところが腑に落ちません。
合流してくれるはずの家康が遅参となれば、
光秀は天王山なんかに陣を敷かずに、
岐阜から尾張、さらに三河まで後退して家康に合流を迫ることができたはずです。
それによって天下に、この挙行は家康とともに行ったことを喧伝できます。
また信長暗殺直後から、有力大名たちへの味方を求める書簡にも、
光秀単独の暴発ではない、家康も一緒だ知らせることも重要な「勧誘条件」になります。
さらにいうなら、秀吉と対決する際に、万が一負けるとした時のために、
自分の家族たちの庇護を求めるのが当然のことなんじゃないかと思います。
そういうことが一切ないというのは、
光秀と家康が共謀していないということなんじゃないでしょうか。

本能寺の変に家康がどのように関与したかによりますが、
光秀と家康が事前に共謀していたのでなければ、
黒幕という表現自体が成り立たないと思います。
光秀の不満が爆発寸前という状況を見て取って、
それに対して信長をほぼ丸裸で本能寺に置き去りにする手立てが家康に取れますでしょうか。
光秀が信長を殺してやると思いつめていたとして、
家康から「信長は本能寺に丸裸で寝てますよ」と連絡が入ったとして、
事前に共謀なしでは動かないでしょう。
ワナだと思うかもしれませんし。

①は直線コースですからね。一刻も早く三河に帰りたかったんじゃないかと。
それと堺から京都近江、関ヶ原を越えて岐阜尾張経由で三河には戻れないでしょう。
京都には光秀本体が、近江には光秀の所領の坂本には留守隊がいます。

ちなみに僕は朝廷黒幕説です。
信長を殺せば征夷大将軍にしてやるとそそのかされたんだと。
ところが信長の遺体が出てこなかったためか、
あるいは最初っからペテンだったのか将軍宣下はされませんでした。
征夷大将軍ならその威光をもって日本中の武士に命令が出せます。
反信長の大名たちもその威光に従うふりで参戦できます。
光秀がぐずぐずしていたのはそれを期待して待っていたんだと思います。
秀吉はそこらへんの事情をどこかでつかんだんだと思います。
それで朝廷、あるいは貴族連中を脅して関白太政大臣の座を強請りとったんだと思います。

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2017/11/2309:07:52

西に家康が向かおうとしたのは別に光秀支援のためじゃなかったかも知れませんよ。京に向かうにはそれこそ混乱している尾張、美濃、近江を通らなければなりません。その所領を併合しようと考えていたのなら?甲斐、信濃に入ったのは「混乱している甲信を鎮めるため」が名目上ですので、尾張などを制する名目は、「織田右府の仇を討つ」として、尾張、美濃などを欲していたとも考えられます。

>なぜ伊賀越えをしてまで帰国したか?
徳川の重臣の多くが家康に同行しており、尾張、美濃、甲斐、信濃が混乱している中それらが三河などにも及ばぬとも限りません。早々に帰国して自領の安定を図らなければならないでしょう。自領は、家康らが上洛していることもあり、家康も討たれたのでは?と考えが浮かび、尚更混乱するかと。
また、京周辺はこの時、誰が味方かハッキリしたものではありません。もしかしたら、神戸信孝が疑心暗鬼になって、家康一行を殺しにかかるかもしれません。京周辺に留まるメリットがないのです。

信康事件も信長によるものはだいぶ否定されているのですが・・・信長公記や家忠日記などは不仲説をとっており、三河物語や当代記など、家康政権になってから書かれたものに信長による殺害命令が載っており、今日はだいぶ否定されていますが・・・直虎はその説取りましたがね・・・

one********さん

2017/11/2308:05:01

>実は、徳川家康が、大軍を率いて合流するのを待っていた

とありますが、「本能寺の変」後の旧武田領での争いで徳川家康の兵力は1万足らずです。

ところが、この戦いで北条軍は2万以上の兵を動員しています。

その為、戦いを止め北条と同盟を結ぶまでに10月末まで5ヶ月近くかかっています。

一体、アナタの言われる大軍の兵力は!?

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2017/11/2307:58:35

>妄想が膨らんでしまいます。

ちゃんと自覚があるんですね。
しかし、なぜ、2つもあった「信康事件は信長に直接は関係はない」という投稿は読まなかったのでしょうか?

この事件は「三河物語」が元ネタなんです。この史料は一応一級史料であり、桶狭間の戦いの新研究にとってはありがたいものなんですが、徳川家の内情に関しては筆者の大久保彦左衛門の主観や偏りが多くて信頼度は今ひとつです。
☆歴史作家は意外にちゃんと勉強していない人が多く、この手の「ええ加減」な逸話がよく載りますが、たいていは江戸の創作です。

そしてこの時代の研究の史料としては最高に信頼度の高い「信長公記」の「安土日記」では、信長は家康に判断を任せており、またこれも信頼度の高い「家忠日記」には家康と信康の家臣団の対立が書かれており、今日では、「信康事件は徳川家の内紛」という説が有力なんです。

☆武士の家は、叔父を殺して従兄弟に殺された平将門や弟を殺した源頼朝の時代からずっと親族間の対立が多いんです。信長は弟を殺し、武田信玄は父を追放して息子を殺してます。

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nao********さん

2017/11/2306:55:06

当時を知る者が生きていない以上、文献を頼るしかありません。
文献にもその事実の記載がないとなるともう知るすべはありません。

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