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藤原道隆は自分の後継者を息子の伊周したかったそうですが 一条天皇に2度断られ...

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ID非公開さん

2017/12/1914:37:36

藤原道隆は自分の後継者を息子の伊周したかったそうですが

一条天皇に2度断られ

結局 道隆の弟 道兼が関白になっていますが

なぜ一条天皇は伊周を嫌ったのでしょうか?

日本史

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編集あり2017/12/2000:17:23

藤原道隆は「中関白」と呼ばれたひとですね。
「中継ぎ関白」といったニュアンスの評価をあらわした別名らしいです。もちろん、死後に奉られたアダ名ですが。
豪腕で知られた父の兼家、藤原氏全盛期を現出させた弟の道長、「存在感のある」二人にはさまった、影が薄く評価も低い関白、ということで、揶揄ぎみにそう呼ばれたわけです。
道隆は兼家の長男ですから、父の死後に関白になったのは順当ですが、彼が五年間の関白在任期間にやったことは、病気で寝ていたことと、息子の伊周を強引に出世させ、地位を固めさせようとしたこと、ほとんどそれしかないんです。
息子・伊周への過度のエコヒイキは、宮中の評価を著しく落とします。娘婿である一条天皇や、天皇の母である詮子にまで顰蹙を買ってしまします。詮子は道隆の実の妹なのに、です。
それでも伊周ってのが、異例の出世に相応しい器量ならまだしも、こいつはどうやら典型的なドラ息子で、のちに起こす事件からみても、性格的に問題のあるヤツだったようです。
道隆は、自分が病気になると、伊周を代わりに関白にするように強引に運動しますが、一条天皇、妹の詮子にまで反対されて挫折します。
道隆が病気で死ぬと、弟の道兼が跡を継ぎますが、これも病気で、七日で死んでしまいます。
さすがに次は伊周かと思いきや、詮子が強烈に一条天皇に働きかけ、もうひとりの弟、道長に跡を継がせてしまうのです。道隆、伊周の親子が、朝廷でいかに評判が悪かったか、という証拠でもあります。
このあと伊周は、色恋沙汰のトラブルから、こともあろうに花山法皇に矢を射掛けるいう、大不祥事を起こして、流罪になります。道隆の子孫、いわゆる「中関白家」は、これで完全に没落してしまい、二度と表舞台には戻ってこれませんでした。
今流行りの用語でいえば、道隆が関白をしていた時代は「失われた五年間」でした。「谷間のひと」です。なんだったんだろうね、あの親子は、ということで、後世のひとは道隆を「中関白」と呼んだのです。

道隆については、もうひとつ、評判を落とす事柄がありました。自分の娘を強引に「中宮」にした際の反則ワザです。
「皇后、中宮、並び立つ!」というフレーズが、なんか妙に、記憶の底に残ってるんですよね。 あれは高校の授業だたと思うんだけど、日本史だったか古文だったか、いまいち判然としないのですが。つまり、「肩書きなんてものは、時の権力者の横車で、なんとでも都合のいいようになるんだなあ」という。
皇后と中宮が「並び立つ」というのは、異常事態です。
だって皇后と中宮は同じ意味だからです。
皇太子と東宮が同じなのと一緒です。
皇后の住処が「中宮」、皇太子の住処を「東宮」です。エライ人を呼ぶときは、肩書きをズバリ呼ばずに、住んでいる建物の名前で呼んだりするのが「日本式おくゆかしさ」です(たとえば武田信玄が「おやかたさま」と呼ばれるのと一緒ですね、「お館」に住んでいるからです)。
ところが、「皇后」と「中宮」が別なひと、ということがおきます。関白道隆のせいで。
道隆は、一条天皇に嫁がせた娘の定子(清少納言の主人ですね)を「立后」しようとします。つまり正夫人と公認させて、生んだ子供が確実に次期天皇になれるようにしたい、というわけです。
ところが、ここに面倒な障害があったのです。
天皇の第一夫人を「皇后」、退位した前の天皇の第一夫人(つまり前の皇后)を「皇太后」、そのまた前の皇后を「太皇太后」、これを「三后」と呼び、それぞれお世話する役所があります(だから、それぞれ一人と決まっています)。ところがこのとき、まだ「三后」がみな健在で、称号にアキがなかったのです。
皆様ご存知のとおり、あの時代は、ときの権力者・藤原氏が自分たちの都合で、幼い天皇を即位させては短期間で退位させてまた別の・・・ということをやっていました。おかげで、前の前の天皇の后がまだ「皇后」のまま残っていたのです。
元天皇の后なのにどうして「皇太后」じゃなかったかといえば、つまり、上がつかえていたのです。
現に太皇太后や皇太后である女性たちに、理由なく「やめてもらう」ことはできません。そうなると、前天皇のおきさきも、皇后から繰り上がれません。そこで苦肉の策として道隆は、「皇后」はそのままに、自分の娘を「中宮」と呼ぶことにして、強引に「立后」したのです。
これは道隆、あきらかに反則です。前例がすべてで動いている朝廷で、こういう強引で自分勝手なことをやると、必ず人気を落とします。

ところが。時代は移って。この「前例」に目をつけたのが、弟の藤原道長です。
この間に、中宮定子は、父・道隆の死と、兄・伊周、弟・隆家の不祥事による失脚で、後ろ盾をすっかりなくしています。
道長は、一条天皇に娘・彰子(紫式部の主人ですね)を入内させ、さらに強引に立后、つまり「第一夫人」にしようとします。しかし、中宮・定子を格下げする正等な理由はありません。そこで、定子を「皇后」とし、自分の娘を「中宮」ということにしたのです。ここで、「皇后、中宮、並び立つ!」すなわち「一帝二后」、一人の天皇に、皇后と中宮、二人の后(第一夫人)がいるという奇妙なことになってしまったのです。
「皇后」と「中宮」はどちらも正夫人であり、事実上、同格です。これ以降、中宮・彰子と皇后・定子の「仁義なきバトル」が展開され、そのなかで「源氏物語」や「枕草紙」が生まれるわけですが、結局、後ろ盾のない定子の劣勢は否めなくなります。
父・道隆が横車で作った制度が、結果として娘・定子の「首を絞める」こととなる、とことん「中関白」殿は人徳がありません。しかし、同じような横車をやっても、道長は朝廷で人気があったんですから、このへんはもう、人間の器としかいいようがありません。
これが先例となり、以降はひとりの天皇に皇后と中宮が同時にいていい、ということになってしまったのです。日本は「おきさきが二人いる国」になったわけです。どうなんだろうな、というところです。

ベストアンサー以外の回答

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ruh********さん

2017/12/2001:04:24

ふだんから、年下の一条天皇に、ため口をきいていて、不愉快に思われていました。

皇后である妹になかなか子供ができないことも、イヤミを言っていたそうです。

天皇以上に、彼の叔母であるその母親、皇太后詮子に嫌われていたので、道隆の兄弟たらい回しとなったのです。

tan********さん

2017/12/1914:44:14

4歳年下の弟・道長を可愛がって[1]兄道隆・同道兼没後の執政者に彼を推して、甥伊周を圧迫し、ついに兄一家を没落に追い込んだのは著名な話である。


お母さんの影響

aec********さん

2017/12/1914:43:42

道長の姉、せん子(漢字不明)が道長を強く推薦したからです。一条天皇はむしろ姉さん女房定子の兄伊周を関白にしたかったらしいです。後年一条天皇が成人すると道長は摂政になれましたが関白にはなれませんでした。

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