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日本という国号は天武天皇か持統天皇あたりでできたらしいのですが、なぜ時期が曖...

afd********さん

2017/12/2306:12:39

日本という国号は天武天皇か持統天皇あたりでできたらしいのですが、なぜ時期が曖昧なのでしょうか?

国の名前を変えるんですから、もっと「◯◯の改新」とか「◯◯の大号令」とかの派手なポイン

トがあってもよさそうなもんですが。

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pin********さん

2017/12/2416:27:51

「日本書紀」が「天武ー持統」としているこの時代は、実際の歴史展開を隠蔽していて、「天智―藤原系」で皇統が推移しているという「策(はかりごと)」が施されているからです。
「天智と天武」は実の兄弟ではなく、赤の他人です。
「日本書紀」が「天武と言っている人物は、九州倭国王筑紫君薩野馬」です。
「筑紫君薩野馬」に、「天智の娘の鸕野皇女」が政略的な婚姻で入っているのは確かですが、天武の皇后として次に「持統」として即位した訳ではありません。
「筑紫君薩野馬―高市皇子―弓削皇子-文武(草壁と阿閇の子ではなく、高市と阿閇の子)-元明―皇子-元正―聖武(高市の孫)-孝謙ー淡路廃帝―称徳」という九州倭国系の皇統で推移しているのを嫌って、「天智―天武(天智の実弟)-持統―文武(天武と持統の子、草壁と阿閇の子が文武)-元明―元正―聖武(草壁の孫)-孝謙―淡路廃帝―称徳」と言う様に「天智―藤原系」の皇統に差し替えて、「壬申の乱」で、いったん途切た「天智―大友」の皇統を「光仁(天智の孫)、桓武」に断絶が無いように繋いでいるのです。
この様な時代背景があったために、質問者の方の言われる「天皇号」の開始時期を曖昧にせざるを得なかったのではないかと考えていますが、如何でしょうか!

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cor********さん

2017/12/2500:03:24

「日本書紀」に国号を変えたことが記載されていないからです。
日本書紀には倭国と日本の両方の国号が書かれていますが、いつ、何故、誰が変えたかということについては、記載がありません。
日本書紀で倭国が使われている最後の条が西暦674年3月の記事ですので、少なくとも674年にはまだ国号は変更されていなかったと考えられます。
日本の国号を外交の場で使ったのは701年の遣唐使からですので、国号を変えたのは674年から701年までの間と推測されます。
672年の壬申の乱に勝利して実力で天皇位を奪取した天武天皇は、唐のような中央集権国家としての日本を建国しました。国号を倭国から日本に変え、王の称号を大王から天皇に変えました。
日本書紀は、日本が大昔から天皇が統治する国であることを示す目的で編纂されたと考えられているため、いつ、なぜ日本という国号に変えたことについて、意図的に曖昧のままにしておいたのではないかと推測されます。

2017/12/2420:44:13

日本という文字が現れたのは、高德紀大化元年秋七月に、「巨勢德太臣、詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨」云々とあるのが初めてででした.

この大化という年は、皇室行事を独断で代行するなど専横を極めた蘇我氏を倒し、孝徳天皇が即位、我が国最初の元号「大化」を建て、中華帝国に従属しない意思を明らかにし、戸籍を編成、わが国初の人口調査を実施、都を明日香から瀬戸内海に面する難波に遷した.宮殿は縄文の伝統を引き継ぐ竪穴掘っ建て式の純和風の草葺屋根の堂々としたものであったらしい.そこに唐朝にも負けまいとする国家建設の意思が読み取れる.「日本」の国号もこの一連の流れの中で、天照大神の大本に拠って立つ国柄を鮮やかに示す「日本」の文字が選ばれたのだろう.

なお、「日本」は朝鮮三国の使者に対しては「にほむ」と読まれたが、国内では「やまと」と訓む、明らかに外国に対して用いる国号であった.その証拠に、古事記は日本の文字を用いず、本朝を「倭(やまと)」と表記している.そもそも日本書紀はシナの史書を意識して編集されたことも併せ考える必要があろう.なおシナに対して初めて正式に日本を名乗ったのは大宝元年(701年)の遣唐使からである.

以上から日本の国号が建てらてたのは大化元年(645年)であることは明らかだが、日本の史学はシナの文献を偏重し、あたかも日本書紀を捏造の書と捉え、古事記など奇書の類だと見るのが学問的であるという、一種の自虐的な病気に揭っており、例えば「卑弥呼の死因さえ知らない」三国志東夷伝倭人条を金科玉条のごとくに分析するのに、記紀に卑弥呼らしい女王が出てこないのは全く意にかけず、初代から仲哀天皇又は武烈天皇までの天皇は架空の天皇だと言い張るようなおかしな癖がある.常識的に考えてももし架空の天皇を捏造するならもう少し実在らしい年齢や事績も捏造すると思うのだが・・・

しかしシナの仕官は未開の地と見る倭のことは興味もなく、ようやく10世紀に書かれた旧唐書などは「日本はもとは小国であったが倭国之地を併合したとも云う」などと云う.この「倭国」はひょっとしたら「邪馬台国」のことで、これは大和朝廷とは別の南九州あたりの酋長の国であると言う説がシナにまで広まっていたのだろうか.いづれにせよ倭と日本との関係もよく知らないらしいのは要するに10世紀になっても日本列島のことは噂や想像のレベルでしか識らなかったということである.

pre********さん

2017/12/2419:11:51

日本の正史(日本書記など)に、いつから国の名を「日本」と呼称することにしたという、ズバリの説明がありません。だから、いつからかというのは、難しいわけです。

「天武天皇の時代からだろう」と言われているのは、大宝元年(701年)施行の大宝律令に「明神御宇日本天皇」と記載されていること。また、「日本」と「天皇」という言葉が同時期に使われるようになっただろうという考えから、飛鳥池遺跡で出土した木簡に、天武6年(678年)の銘で、「天皇」という表現が認められるからです。

ただ、「三国史記・新羅本紀」という朝鮮半島の古文献に、「文武王十年(670年) 倭国が国号を日本と改めた。日の出る所に近いからそう名付けたとのことである」と記述されています。
ということは、それは、672年の壬申の乱の前ですから、「日本」という国号は、天武天皇の前の天智天皇の時代に定められたと考えればいいのではないかと、私は思います。

つまり、邪推ですが、天智天皇の業績なので、天武天皇の命によって編纂された日本書記には、その点に重きを置いて、はっきりと記述されなかったということです。

sak********さん

2017/12/2417:46:14

旧唐書

①その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
②あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
③またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。
それで中国ではこれを疑っている。

とありまして、①~③のうち、②、③の何れかだったのでしょうが、当初「日本」をヤマトと言っていたようなので、具体的にいつ誰が文字を変えたかわからなくなっていたのかも知れませんね。

ito********さん

2017/12/2415:30:09

『日本書紀』や『続日本紀』に「今から倭国ではなく日本国とする」という記述が一切ないからです。
ですから状況証拠から考えていくしかないという事態になっています。

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