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後醍醐天皇が吉野(奈良県)に南朝をたて、京都の北朝と対立した。とありますが、...

tac********さん

2017/12/2921:15:17

後醍醐天皇が吉野(奈良県)に南朝をたて、京都の北朝と対立した。とありますが、南朝と北朝ってなんですか??

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ベストアンサーに選ばれた回答

2017/12/2922:50:56

天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」の二つの家系に分裂したのは鎌倉時代のことで、これは純粋に天皇家の内輪もめです。
後嵯峨上皇という困った人がいて、末っ子が可愛いからといって、兄の後深草天皇に迫って、強引に天皇の位を弟に譲らせたのです(亀山天皇)。当然、兄は不満ですから、「次の天皇はオレの子だ」と主張しますが、弟は自分の子供に継がせたい。天皇家が二つに分かれて、醜い争いを始めます(兄の家系が持明院統、弟の家系が大覚寺統、「党」ではなく「統」です)。ここで仕方なく鎌倉幕府が乗り出してきて(承久の乱の結果、皇位の継承については幕府が監督するという決まりになっていたので、仕方ないです)、「交互に天皇を出す、ということで何とか」と話をつけてやります。
つまり、皇統分裂は決して鎌倉幕府のせいではありません。幕府はむしろ調停に苦労して、なんとか丸く治めようとしたのです。
しかし、そういう状態をいつまでも放置すると、戦乱が起きたときに面倒なことになります。
やがて、後醍醐天皇(大覚寺統)が「鎌倉幕府打倒」を叫び、そこに「北条氏の政治は限界だ」と感じた武士が馳せ参じ、幕府は滅び、建武の親政が始まります。
ところが、この後醍醐天皇が、「今後は朕の子孫だけが天皇になる。持明院統には二度と皇位は渡さん。だいたい両統迭立なんてのは僭越にも鎌倉幕府が決めた約束で、臣下が天皇の継承に口を出すなど怪しからんことだ」と言い出します。
これは実に理不尽な話であり、事実関係も間違っていますが、後醍醐天皇というのは「天皇ファースト」という思想の人だったし、自分が「新王朝の初代皇帝になった」くらいの気持ちでいたので、仕方ないのでしょう。
こういう「独裁者タイプ」の人物は、日本史にはたまに出てきます(天智天皇、平清盛、織田信長、豊臣秀吉)。しかし、大抵は「和をもって尊し」が基本の日本では受け入れられず、途中で潰されるか、本人が死んだ途端に政権は崩壊します。そして、みんなに担がれる「御神輿タイプ」に取って替わられます。
討幕の最大の功労者・足利尊氏はまさに典型的な御神輿タイプで、「武士をないがしろにする後醍醐の政治は許せん」という声に押される形で担がれて決起し、後醍醐を追放しようとします。
ところが、日本には「とにかく天皇には反逆してはいけない」という絶対のルールがあります。どうしましょう。
おお、ちょうどここに、ルールからいけば後醍醐の次に天皇になっていいはずの持明院統の皇族がいるじゃないですか。じゃあ、こちらを天皇にし、その新天皇から「征夷大将軍」の位を貰えばいいわけです。
後醍醐は怒って、京都を脱出して吉野に逃れます。そして、足利を快く思わない武士たち(どんなときだって、つねに不満分子というのはいます)に「こっちに味方しろ」と呼びかけます。「朕が正しい天皇だ、譲位などしていない、その証拠に三種の神器もこっちにあるぞ」というわけです。これが「南朝」です。現実的・客観的に見れば単なる劣勢の辺境ゲリラみたいなもんですが、「こっちがホンモノだもん」という理屈の筋は一見通っています。ですから、尊氏と対立した者はとりあえず「南朝に味方します」といえば、謀反人ではなく、大義名分のある正義の軍、官軍になれちゃうのです。
実際、尊氏と弟の直義が対立すると、直義が南朝に降ったり、尊氏が直義に負けて都を追われると、その当の尊氏がなんと「南朝に味方します」と言い出したり(尊氏は思想や信念の人ではなかったんで、何でもアリ)、メチャクチャなねじれ現象が起きはじめます。
地方で隣の領主に押されてる者、一族の相続争いで劣勢な者が、続々と「南朝方」を表明して、内乱が複雑になっていきます。国内のゴタゴタはいつの時代にもありますが、「天皇が二人いる」ことが、混乱に拍車をかけてるのです。
吉野の南朝は軍事的には圧倒的に劣勢なのに、「アニキが北朝なら、オレは南朝にいこう」というような(後醍醐の天皇ファースト思想になんか全然共鳴してないけど、そんなの関係ねえ)ヤツらの「受け皿」として存在し続けているのです。これでは、いつまでたっても室町幕府は安定しません。
そこで足利義満は、南朝に「対等合併がご不満なら、大幅に譲歩しますので」と持ちかけます。つまり、南朝の天皇に京都に帰ってもらう条件として、「いままではそちらが正統だったということを認めましょう。三種の神器もそっちにあったわけだし。だから、その正統な天皇位を、こちらの北朝の天皇に正式に譲位して、三種の神器も渡してください。今後は従来どおり、両統で交代に天皇を出しましょう」というわけです。ここまでの北朝を「ニセモノ」と認めるというんですから、大変な譲歩です(実際、肝心の北朝の天皇・上皇は、義満の交渉内容をあとから知らされて激怒したそうですが)。南朝は条件を呑んで、神器を渡して正式に譲位します。「南北朝合一」です。
つまり、この時点で、南北朝の争いは、形式上は「南朝の判定勝ち」で終結したのです。歴代の天皇を全部「ニセモノ」と認定されてしまった北朝は、明らかに「負け」です。
しかし予想通り、義満は「政治家」であり「タヌキ」でした。天皇家が二つあったら、またいずれ「反対勢力」が片方を担ぎだします。それはダメだ、というわけで、「交互に」という約束は反古にされ、天皇位は代々「北朝」の系統で受け継がれ、無視された南朝の子孫は、多少は抵抗しつつも、結局は消えていきます。
義満というのは、豊臣を騙して堀を埋めてしまった家康に、とってもよく似ているといえます。ウソでもサギでも、分裂の旗頭になるような存在は消しておくことが「天下人」の義務なのです。
というわけで、名分論でいけば、南北朝の争いは「南朝が正統」で決着したのです。ただし、南北朝合一のときに、完全に合意のもとに正式に譲位されたのだから、以後の北朝の子孫(現在の天皇に至る)も「正統」になった、ということでいいわけです。
明治時代の学者も、この手続きを「追認」しました。それによって「現天皇は完全に正統である」ということを確認し、一方で、南朝に味方した楠木正成たちを「勤皇のヒーロー」に仕立ててプロパガンダに使うことも可能になりました。綱渡りのような「政治的決着」といえます。

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won********さん

2017/12/3008:29:45

北朝・南朝の「朝」は朝廷のことです。北朝は北の朝廷、南朝は南の朝廷。朝廷すなわち当時の日本政府が北と南に二つ出来てしまったのです。

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feawerさん

2017/12/2922:44:21

足利尊氏が、後醍醐天皇の建武の新政に、反旗し、光厳天皇をたて、天皇にしてしまう。
劣勢であった後醍醐天皇は、吉野に逃れ、そこを仮の御所としたため、吉野の南朝と、京の北朝が並び立つ、異常な時代になりました。同時期に二つの朝廷があり、二人の天皇がいた時代になりました。

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2017/12/2921:50:33

北にある朝廷と南にある朝廷

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