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隋唐を拓跋国家と言いますが、この概念で隋唐を捉えることの意義は何ですか? 楊...

pac********さん

2018/1/115:07:14

隋唐を拓跋国家と言いますが、この概念で隋唐を捉えることの意義は何ですか?
楊堅が拓跋系の西周出身であること、隋唐が北朝の税制や兵制を継承していることは知っていますが、だから何?とい

う気がしてしまいます。

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ste********さん

2018/1/118:28:31

隋唐は、北魏が分裂した西魏、それを乗っ取った北周の
流れを受け継いでいます。
北周から隋・唐の支配者集団のことを関隴集団とか武川鎮軍閥
ということがあります。
これは、北魏時代に北方の六鎮の中の武川鎮出身の軍人が
北周・隋・唐の支配者層を形成したということを意味しています。
彼らは、単純に鮮卑人や漢人と区別するよりも、
混血の進んだハイブリット集団だと解釈したほうがよさそうです。

隋の楊氏も、唐の李氏も系図上は、漢人の名門貴族の末裔を
主張していますが、実際には鮮卑系の影響をかなりうけた
一族だったと考えられています。

>だから何?という気がしてしまいます。

隋唐を拓跋国家というのは、北魏以来の伝統を
何かしら受け継いでいるからです。
中国史にとって、魏晋南北朝時代とは、
胡と漢が対立・融和・融合した時代でした。
最終的に、胡漢の融合が重要になってくるのですが、
その集大成が唐ということになります。
唐は、いわゆる世界帝国と呼ばれることもありますが、
外部世界との交流を活発に行った政権でした。
この性格が、おそらく胡漢が融合してきた北朝の流れを
受け継いでいることを示しているのでしょう。

仮に南朝が天下統一を果たしたとすれば、唐のような世界帝国にならず、
もっと内向きの政権になったかもしれません。
まあ、これは憶測にすぎませんが…。

唐の初期には、支配者層・有力者は関隴集団で占められていました。
しかし、則天武后が非関隴系の科挙官僚などを登用するなど、
徐々に支配者層の中にも、新しい層が進出するようになりました。
しかし、それでも玄宗の時代には、安禄山や高仙芝のような
異民族系の武将が重宝されるなど、唐の性格はそう簡単に
変化していないように思えます。

もう少し大きな視点で、世界史を見てみると、
中国の魏晋南北朝時代は、西ヨーロッパにおけるローマ帝国末期から
中世初期の時代と対比することができます。
中国でも西ヨーロッパでも異民族が大量に流入したことで、
新しい時代が切り開かれました。
西ヨーロッパにおけるフランク王国(特にカール大帝)は
ゲルマン文化とローマ文化をうまく融合させ、次の時代の土台を作りました。
中国では唐が同じ役割を果たしているといえるかもしれません。

質問した人からのコメント

2018/1/2 00:37:54

胡漢融合ですが、なるほど。
唐の性格を考える上で参考になる概念ですね。
世界史の教科書では、カール戴冠についてはゲルマン・ローマ・カトリックの融合と書いてあるのに、魏晋南北朝から隋唐は何も言及しておらず、わかりにくかったので参考になりました。

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