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新約聖書のマルコの福音書の次の箇所について教えてください。 - 「すべては、火...

sea********さん

2018/3/1022:13:29

新約聖書のマルコの福音書の次の箇所について教えてください。
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「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。 」とは、どういう意味ですか?

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9:46 9:47もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 9:48そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。 9:49すべては、火によって、塩けをつけられるのです。 9:50塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
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pri********さん

2018/3/1121:37:14

「人は皆、『火』で『塩味を付けられる』」は、「人は皆、『試練』で『聖化される』」という意味です。

マルコによる福音書9章 42-50節
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

「目・手・足」が出て来ますがその意味は、聖書のこの箇所で説明されています。キリストを「頭」とするキリスト教徒と呼ばれる人達の、体の部分のことです。

エフェソの信徒への手紙4章 15-16節
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

コリントの信徒への手紙一 12章 12-30節
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

しかしキリスト教徒と言われる者について、全てのキリスト教徒が、真のキリスト教徒ではありません。「目」・「手」・「足」についても本物では無い人がいる訳です。「目」は、 えぐり出しなさい、「手」や「足」は、 切り捨ててしまいなさいと言っています。毒麦のたとえと相違している理由は、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」という条件があるからです。
マタイによる福音書13章 24-30節
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

真のキリスト教徒である条件は、「試練」を受けているということです。
ヘブライ人への手紙12章5-10節
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、
力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、
鞭打たれるからである。」
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

「火」は、「試練」という意味を表現しています。
ペトロの手紙一1章6-7節
今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。


聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき 日本聖書協会 1994




Thomas Evangelista

質問した人からのコメント

2018/3/15 10:17:41

回答ありがとうございます!
勉強になりました。

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dol********さん

2018/3/1114:41:25

シメオン派ねえ。はっきり言って、この文脈からそんなものは読み取れない。「読み込みすぎ」という奴だね。

君はパンを焼いたことがあるかい。パン生地には塩を混ぜるんだよ。塩を入れないパンは味気なくて食えたものではない(今なら無塩パンもあるけどね)。

同様に、祭壇で小麦を献げる場合は、塩を添える。この穀物の供え物は、血を流さないので「火による供え物の中で最も聖なるもの」とされる。

さて、マルコ 9:48 は、イザヤ 66:24 からのもので、タルグム(初期ユダヤ教のアラム語注解)ではこれを「ゲヘナ」と呼んでいる。それがマルコ 9:47 に反映されているわけだね。

だから、ここでは「主の裁きの炎」が「パンを焼く炎」へと変わり、そのパンに混ぜられる「塩」が祭壇の供え物に添えられる「塩」に変わる。連想によって次々とイメージを変えているわけだ。

それによって、来たるべき「主の裁きの炎」の中で、「塩」としてパン(おそらく教会)に味をつけ、神に献げられる信徒の姿が、イメージ豊かに浮かび上がる。まあ、パン作りを知っていて、祭壇のことも知っていた当時の民衆ならね。

いかにもイエスが言いそうな喩えではあるけれども、文脈のつながりが若干唐突なので、マルコ(とりあえずそう呼んでおく)の編集に帰して良いかもしれない。マルコは割とこういうつなげ方をする。

mar********さん

2018/3/1112:00:31

マルコ9_33から9_50で、9_38から9_41、9_49から9_50を除いて読むと分かる。
除いた部分は別の人の挿入。
小さい者(シメオン)こそが偉大だという内容を、反シメオン派が挿入によって否定した。
地獄の消えない火を、塩で味を付けるための火にかえてしまった。
この人物、才能あると思いませんか?

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twx********さん

2018/3/1109:55:05

聖書全体で用いられている火は、主に精錬とか選別して焼き滅ぼす等に用いられています。
そして塩は、食品の保存料として用いられます。
キリストの福音で躓きとなる手、足、目があるなら、もぎ取る程に精錬に精錬を重ねて、長く、永続する真理の言葉を見いだすように促す喩えです。

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for********さん

2018/3/1107:41:01

この文脈からすると、

この言葉は、つまずいて罪を犯すなら

ゲヘナの火で塩漬けされることになる・・という意味です。

つまり、ずっと責めを負うことになりますよ。

とのことです。

are********さん

2018/3/1107:35:10

御指摘の聖句はマルコ9:49の「人はすべて火で塩づけられねばならない。塩は良いものである。しかし、もし塩の味が抜けたなら、何によってその味がとりもどせようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに和らぎなさい」
ですね。

マタイ5:13で主は「あなたがたは地の塩である。もし塩のききめがなくなっったら、何によってその味がとりもどせようか」と教えておられます。

塩とは、この世的な生活をするのではなく、バプテスマのとき主と交わした聖約を守り、主の教え、戒めにしたがって生活するとき、聖徒は世の塩、良い塩気の味を保つ者と主に認められることを意味しています。

その塩気は、火すなわち、聖霊による清めを受ける聖徒達が、その塩気を持ち、保てるようになるということを意味しています。

主はヨハネ3:5で「だれでも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」と述べ、マタイ3:11でバプテスマのヨハネはキリストについて「この方は聖霊と火によっておまえたちにバプテスマを授けるであろう」と述べています。確かな聖霊によるバプテスマを「火」とも形容しています。聖霊が下るとある場合にはほかの人たちにはその人が「火」に包まれているように見えます。モルモン書のヒラマン5:23~44,第三ニーファイ17:24にはその火や天使と火が子供たちに下り、子供たちが火に包まれている描写があります。

1830年3月に主は、次のようにジョセフに告げています。
「あなたは、様々な教義を話すことをせず、悔い改めと救い主を信ずる信仰、バプテスマによる罪の赦し、および火すなわち聖霊による罪の赦しを告げなさい」(教義と聖約19:31)

バプテスマを受け、ペテロたちが使徒行伝8:17で行っているように、神の神権を持つ方から頭に手を置き、その按手により聖霊の賜物をいただき、その人が主との聖約を守り、ふさわしくあろうと努めていく時、確かな聖霊が人に下ってきます、その聖霊は、全身に主の愛を感じさせて下さり、欠点多き、罪を犯し、失敗だらけの自分でも、こんな自分でも主は、天父は深く愛してくださっているんだ、また全ての人たちを自分の息子娘として愛しておられるんだ・・・そのことを燃えるような温かさで全身に感じさせてくれるのです。そのとき人は、主を悲しませるようなことは決してしたくなくなります。そのような燃える感覚はまさに火のバプテスマと表現しているのです。

そのとき、聖徒は内に塩気を有する者となります。主が共にいて下さり、主の聖徒として生きる確信,希望,勇気を持つことができるからです。

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