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存在の意味を考えてしまうというところが、人間にはあると思います。

存在の意味を考えてしまうというところが、人間にはあると思います。

ところが、その意味というものは、無いのだという結論になるのは、その意味というものについて考えるのに疲れ果てたか、もしくは、少し考えて、なんとなく、意味というものは見出そうとするだけ無駄なのではないか、そういうことは徒労であり、意味なんていうのは、後付け的に人間が考えたものに過ぎないのではないかということに、安易に結論付けたかということなのでしょうか。

元々意味は何だろうと考えるということが、人間という精神を持った生き物の本性としてあるのではないかと考えることについても、どのように思われますか。

補足孔子は五十にして、天命を知る、と言いました。
これは、孔子が自分の人生の意味を知ったということだと私は思います。
その孔子に向かって、人生に意味などは無いよ、と私だったら言えません。

そのような意味で、
『この問題は、言葉で表すことのできない、密教的なところに、解答があるような気がします。ご存知のように、顕教が、言葉で明らかにされた教えであるのに対して、密教は、真理は言葉では表せないところにあるとしているものです。
つまり、存在意味とは、言葉で表せるようなものではなく、なんとなく実感として、「生きてきたんだ」「生きているんだ」「生きなければならないんだ」というような自然な感情が、勝手に湧いてくるような、そのようなものではないのだろうかと、私は思うようになりました』と回答くださった人の見方は、正しいのかもしれません。

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砂漠谷泉さん

2018/3/1816:06:13

存在に意味があるのか否かというのは、決して簡単な二者択一の問題とはいえません。例えば、何億光年もあるような宇宙の果てに(地球から見てです)星があって、その星の上のごく小さな一つの岩に関して、これが存在するとして、それについて、何かの意味をあなたは感じますか?存在であるということは確かなのですが、あなたはその存在性に対して、今までに関心をどれほど払ってきましたか?これはかなり関心の対象にはなりにくい存在者としての存在ですね。あまりにも遠い存在者としての存在です。もっと近づけてみましょう。サハラ砂漠に存在する砂の一粒一粒に関して、存在者としての関心がありますか?無いですね。存在者に対して関心がないのに、存在に対しては関心があると云う事が果たして言えるでしょうか?あくまでも、存在に対する関心は存在者に対する関心を介して持つものでしょう。ですから、貴方は、存在一般に対して関心を持っているのではなく、存在者に対する関心を存在という一般的な意味表現に対する関心に置き換えているわけです。なぜそのようなことになるのかというと、貴方は、存在と云う言葉に対する場合には、自己を巻き込んでいるからです。それどころか、貴方の表現する存在と云う言葉は、大きな割合で、あなた自身を表現しているのです。貴方を含んで初めて、存在と云う言葉には意味が生じるのです。例えば、我々の知るこの宇宙だけが「存在」であるのか否かはわかりません。宇宙は無限で、宇宙と呼ばれるべき存在は我々の知るこの宇宙しかないのだと、云う事は、勿論無限の意味からは推測できますが、それは言葉の意味であり、現実を保証するものではありません。ですから、存在と云う言葉でもって、我々は実際には、わけのわからない対象に対して、我々流の解釈を与えているという事になります。それゆえ、我々の関心は、存在にあるのではなく、存在者に対する関心であるのに、我々の解釈では、存在に対する関心であるように、勘違いしているという事になります。要は、貴方のいない別の宇宙なんて、存在しようがしまいが、貴方の関心の対象にはならないし、もっとはっきりいえば、宇宙も地球自体も、貴方と云う存在者に関係のないものであれば、それは、関心の対象にはならないのです。ですから、貴方が関心の対象にしているのは、究極のところ、あなた自身のことであり、貴方という、存在者であり、その「存在」の意味であります。「意味」というのは、元来、存在者としての「貴方の存在」を通さなければ生じないものであります。
そして、貴方は、自分自身に対する関心から、存在一般に対する関心を持つにいたると云う事で、その性質は、自分自身を、一般化しようとする、衝動であります。この衝動は、人間の持つレベルの、言語能力を持つときに初めて生じるものであります。この「存在の一般化」に対する関心が、神と云う存在に対する関心に変化してきたのが、人間の歴史であります。人間の持つ抽象能力がそのまま抽象的な思考に対する関心にとどまり、人間の、好奇心を刺激し続けることには困難が生じ、存在者に対する、存在一般という一般化の過程で抽象性としての、存在の一般化としての対象に対する信仰がはぐくまれてきました。存在の一般化として、人間以上の存在が想定されていったのです。(動物にも、存在者に対する関心はありますが、存在一般に対する関心はありません。それは、彼らの言語能力の乏しさの故であり、存在の一般化という、抽象能力がないという事です。)
そのような意味で、貴方は、自分自身が関係をもつところの、存在者に対する関心を、存在一般に対する関心へと、(抽象化の過程を通して)昇華させていったのであり、存在一般とは、あくまでも、あなた自身と、あなた自身の存在に関係する存在者に対する関心が本体なのであります。

  • 意味というものが、それを存在として認識した者(存在者)との関わりの中において、その存在者自身によって、想定(認識)されるものであるということになりますね。
    私は何か存在に気づいた、その存在と自分との関わりなは何であろうかと考える切っ掛けとなった、そこに何かの意味があるのではないかとすぐに考えてしまいます。

    「存在に意味があるのか否かというのは、決して簡単な二者択一の問題とはいえません」

    その通りであり、この「意味」というテーマは、興味深く感じております。

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質問した人からのコメント

2018/3/21 19:32:26

一冊の本を読んだような充実感がありました。
これぞ、哲学という感じが致しました。

大変に、勉強になりました。

他のみなさんの回答の中にも、大いに感じるところがありました。
質問してみてよかったなと思いました。


ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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joy********さん

2018/3/2113:04:48

あなた様は生きている意味を考えてこられたのですね

前にも書いたかもしれませんが、分からないので書きますね
私は、人間には生きる本当の意味があることを知りました。それによって生きる希望を持っています。長いですが、とても大切な内容なので辛抱して読んでくださいますか

なぜ人間は生きているのか、これまでみんなが考えてきた質問です。でも答えは見つけられていません。だからいくら家族やお金や物で満たされていても何か物足りない感覚があります

それでもこの質問を考えること自体すばらしいと思います。これが人間と動物の大きな違いです



もしすべての物 宇宙、銀河、太陽、地球 、生物、そして人間が、すべて偶然に発生したのなら、すべては偶然に存在しているのであり、存在意義は ありません。本当は生きる意味などないのに、一生懸命生きている。家族や社会のために生きて自分の生きる意味を見いだそうとしています。でも私たちすべては偶然発生した"物"なので、たとえ生きる意味を考え出したとしても、本当はそんなものは ありません
すべては無意味です


でも、私はこれまで宇宙や生物に関する研究をしてきましたが、それが偶然に発生することなど100%無理であることを理解しました
以下にその理由を少しだけ挙げます

1.宇宙の仕組み
私達の宇宙は絶妙な物理定数の上に存在しています。4つの物理学的力(重力、電磁気力、強い核力、弱い核力) さらに、陽子と電子の電荷値、陽子と中性子の重さ、光の速度 など、多数の値がすべて超絶妙に設定されているために、原子が生まれ、星が生まれ、太陽が安定して燃焼します。これらの値のどれか1つがほんのわずかでも今と違っていたら、宇宙は存在できないそうです。これらの値がすべて偶然に揃うことは 確率的にゼロです (詳しくお知りになりたいなら、ポール・デイヴィスという宇宙学者の「幸運な宇宙」という本を検索してみてください)

2.生物の仕組み
生物を構成しているのは細胞です。細胞の仕組みは1つの都市に例えられるほど複雑で精巧なものです。しかも自己複製できるので都市より相当ハイテクです。最も賢い科学者集団でも細胞1つ作ることもできません。もう少し述べると、細胞のタンパク質はDNAがなければできません。そしてこのDNAも超ハイテクな作りをしていて、1gで1兆GBの情報を記録できます(最先端のmicroSDXCは0.4gで現在最高400GBしか記録できない)
超ハイテクなDNAが偶然にできることはありません (ペンシルバニアのリーハイ大学の教授であるマイケル・ビヒー(マイケル・ベーエ)、ニューヨーク大学の名誉教授ロバート・シャピロの文献を検索してください)

緻密な宇宙が偶然に整い、超ハイテクなDNAや細胞がまた偶然に発生し、愛や正義や神について考える「第2の宇宙」と呼ばれる超複雑な脳を持つ人間に 偶然になる可能性は… 科学を詳しく知らなくても
正常な思考で考えたら
100%ゼロです


以上はほんの2例ですが、宇宙も生物も偶然に偶然が重なって発生したとは言えない理由です。多くの最先端の科学者が進化論を否定しはじめている理由でもあります

では、宇宙や生物が偶然に発生したのでないならば、どのように発生したのでしょうか

インテリジェントデザイン論、つまり人間の思考能力をはるかに凌ぐ存在(宗教的には神と呼ばれる)によって創造された という論が世界中で真面目に考慮されはじめています
私もいろいろな生物の仕組みを調べましたが、本当にハイテクな作りをしています (わかりやすいところでは経済産業省サポートでスタートした「ネイチャーテック研究会」と東北大学大学院による「すごい!自然のショールーム」というサイトを調べてみてください。このサイトではインテリジェントデザイン論については論じていませんが、自然や生物の精巧な仕組みについてとてもわかりやすく載せてくれています)

では、仮に本当にそのような存在が生物や人間を作ったのであれば、その証拠が自然界以外にもないか。ということで調べたのが宗教です。各宗教には特徴があり、その中でインテリジェントデザイン論 つまり一人の創造者について論じているのは主にユダヤ教 キリスト教 イスラム教です
そしてこの3つの宗教に共通して尊重されているのは 聖書です。そこで宗教とばかにせず、客観的に聖書を研究しました

研究で分かったことの主な点を以下に述べます

聖書には予言が書かれているが、歴史を調べるとそれらの予言が本当に当たってきた

日本人は知らない方が多いですが、聖書には多くの予言が書かれています。わかりやすいのはダニエル書にある予言ですが、そこには世界の国々の将来が予告されています。メディアペルシャ帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国、それ以後の世界の列強の動きが予言されています(「ダニエルの預言に注意を払いなさい」という本が詳しく解説) 

歴史と考古学を調べて分かったのは、ダニエル書に限らず聖書の他の部分のすべての予言(70個ほど)が、100%実現しているということです
もし 一つの予言でも実現しなかったなら、もうそれでイカサマと分かりますが、聖書の予言は全部当たってきたことが歴史によって証明されています。信じがたいことです

人間では必ず当たる予言を述べるのは不可能です。聖書の予言は創造者によって人間に与えられたと 聖書に書かれています

それで聖書の予言は、やはり創造者が存在している強力な証拠となっていることがわかりました

それでは、聖書には創造者が人間を作った理由、つまり人間の生きる意味が書かれていないか調べてみると、ちゃんと書かれていました

その答えは簡単に言うと
人間は、他の人間と創造者の愛を永遠に楽しむために造られた ということです

どういうことかというと、聖書によると、創造者は愛と正義の神で、人間を造った時、動物のような本能ではなく、思考し(生きる意味を考え)、正義を求め、愛を楽しむ能力を付与しました。 他の人を愛し、愛されることを楽しめるように造られているそうです (現実と合致しています)
それだけではなく創造者の愛を知るように造られてもいて、神は人間が生きる喜びを味わえるように五感を与え、美味しい果物や野菜や調味源、感動的な自然や動植物を造り、それらを楽しめるようにして、創造者が人間を愛していることを伝えている とのことです。聖書の使徒14:17に「神は人間に雨や実りの季節を与え、食物と楽しさで人間の心を存分に満たして、ご自分を明らかにしてこられた」とあります

聖書によると、創造者はとても人間を愛していて、地球を創造し、もともとは人間が地上で健康と若さを保ちながら永遠に生きて、他の人間との愛や友情を広げていけるように、そして自然界のいろいろな場所や植物や動物を見て 育てて 研究して 知識を増やし、芸術や音楽やスポーツなどを究めて楽しめるように、さらに神との友情を永遠に深めていく、これらの目的で造られたとのことです。聖書の伝道の書3:11では『神は宇宙、地球、動植物、人間などを美しく造られた。神が造ったそれらのものを人間が知り尽くして飽きたと言えないように。永遠の時を人間に与えた』ということが示されています


ところが、過去に人間が創造者を捨てたため、人間は永遠に生きる権利を失ってしまいました。その結果私達は不公平で過酷な社会に生まれ、とにかく生きて、病気にもなり死んでいきます。真の愛と正義を見失った世界で社会も家庭も混沌としています


でも、創造者は将来、正義を愛する人間にもう一度その権利を与えて、地上での永遠の命を楽しむようにされるとのことです。創造者は平等な神様なので、これまで死んで土に帰った大勢の人は地上にもう一度復活(再創造)させられ、人生をやり直せるとのことです (使徒24:15には義者と不義者の両方が復活するとあります)

ただし、地球で永遠に生きるためには、創造者の言われることを学んで、他の人を愛し生きなければならないということです


信じがたいでしょうか、客観的に科学と聖書を調べた結果分かったのは、本当に創造者がいて、あなたを見ていて、とても愛してくれていること、私達に健康と若さを取り戻させ、正義の社会で永遠に生きて、他の人間と愛し愛される生活を楽しませること、そして地球の様々な場所や植物や動物についての知識を増やし、学問や芸術や音楽やスポーツなどを究めて楽しませること、そして神との友情を永遠にふかめていくこと、これが神が人に与えた生きる目的だということです

この動画が分かりやすく説明しています https://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E3%83%93%E3%83%8...

それで、私はその時を楽しみにしながら創造者についてさらに研究しています。創造者の名前がエホバということも知りました。
また他の人に出来る限り愛を示すよう努力しています。生きる本当の意味を知ることができてとても幸せです。将来が楽しみです

上記の事が本当かどうか確かめたいと思うならインテリジェントデザイン論と聖書をちょっと調べてみてください
https://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88...

私は聖書についてはこの聖書レッスンで学びました。無料でした
https://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC...

食べて寝て仕事して遊んで,,,そんな表面的な生活では人間の本当の欲求を満たすことはできません

本当の生きる意味を知るなら必ず大きな感動と生きる喜びを得られます

ぜひあなたも本当の答えを聖書から見つけてください
心から 応援していますp(^-^)q

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大谷茂雄さん

2018/3/2112:57:29

無駄とか徒労とかは
そも意味を見出せない人が言う事ですね
存在の意味を知った人の心は歓喜です

汝自身を知れ の答えが分かれば 歓喜です
孔子は天命を知る・・自分の使命 役目が50でわかったのです

仏教で言うところの 悟りですね

それが分かると
ソクラテスのように
何物をも恐れね 死をも恐れね人間になれるのです

しかし
悟った人が 悟りの実態を示しても 誰も見向きもしません

多摩川の土手しか知らな人に ヒマラヤは分からないのです
人々は推し量る基準をもっていないのです
先入観 常識 思い込みの はるか彼方にあるからです

プラトンの喩え話ですが
生まれてから今日まで 暗い洞窟で生活している人に
太陽の話をしても 青い空と緑の大地の話をしても
誰も相手にしません 批判され 迫害され
キチガイあつかいにされるのです

密教の悟りとは違うと思います
悟った人は 言葉を巧みに使い
その実態を人々に伝えるのです
批判されながら生涯を賭して戦い続けるのです

そのことから言える事は
悟りは 常識の及ばない はるか先にあるのです
悟りは 信 が強くなければならないのです
悟りは 勇気ある行動がともなうのです
信じて一歩踏み出せば 一歩外へ出れば
一瞬で すべてを理解するのです

学歴 知識 知恵 一切関係ありません
むしろ 知識のある人の方が 自分の頭で考えるため
なかなか悟れないのです

瞑想にふけって 悟るのは ただの思い込みです
無駄な修行などいらないのです

信じて 行動してこそ 悟るのです

今現在 悟った人が ここにいるとします
誰よりも
誹謗中傷され 迫害され キチガイあつかいされた人です

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juu********さん

2018/3/2023:15:59

人間の存在意味
この問題は、言葉で表すことのできない、密教的なところに、解答があるような気がします。ご存知のように、顕教が、言葉で明らかにされた教えであるのに対して、密教は、真理は言葉では表せないところにあるとしているものです。
つまり、存在意味とは、言葉で表せるようなものではなく、なんとなく実感として、「生きてきたんだ」「生きているんだ」「生きなければならないんだ」というような自然な感情が、勝手に湧いてくるような、そのようなものではないのだろうかと、私は思うようになりました。
言葉で表すことができないものだから、理屈で考えてしまうと、「存在意味は無い」という結論に達してしまうのかなと、想像します。
存在意味をつかむ、つまり、「生きるんだ」という感情が湧くようになるには、若いときに、いっぱい悩んで苦労することが重要であるように思います。そして壮年になった後、自分の人生を振り返ったときに、自然に、しみじみと湧いてくるものなのかもしれません。

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sak********さん

2018/3/1820:01:16

もともと「意味」というものは人間が生み出したものです。当然ですが他の動物は意味などという形のないものを認識できませんし、人間が消えれば同時に意味も消えます。意味は人間の言葉の中だけで語られる、現実には存在しないものなのです。
故に、どのような事象にどのような意味があるのかの答えは、人それぞれ、ひいては文化や宗教によって様々です。

意味が存在しないというのは、人間性とかこの世の真実とかは別として、現実です。
意味は手に取ることは出来ず、観測することも出来ないのです。
それをあたかもそこにあるかのように語るのが、人間の特徴なのです。

人間のこれまでの発展は、まさしく意味を捨てることで成されてきました。神が作りし世界、神に選ばれた種族、かけがえのないただ一つの命・・・。科学はこうした意味を尽く破壊していきました。
これは科学が邪悪であるということではありません。科学はその性質故、現実をとにかく観察し、分析するのです。現実を見れば見るほど、虚構の産物たる意味は消えていくのです。
現実を見ることで、その裏にある法則を導き出し、それを応用することで技術にする。これが現代の人間です。

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fuj********さん

2018/3/1710:56:04

意味には、二通りの考え方があり、一つは意味は人間が意味づけるものであり、その意味は意味付ける者の主観の中にある、という考え方。
この考え方だと、対象そのものには何の意味もないということになります。

もう一つは、意味は意味付ける対象に客観的にある、という言語学の考え方。
この考え方だと、人間の主観、つまり人間がどう考えようと、意味はそれとは独立に存在することになります。

前者が、フッサールの唱えるところで、私の意識の意味付与作用によって、対象に意味を付与する、というもので、後者が言語学者ソシュールの唱えるところで、意味は語と語のネガティヴな「差異」に基づくというもの。
そして哲学者ウィトゲンシュタインは、フッサールの意味は私の主観にある、私の心の中にあるという考えを否定したことで知られます。

で、あなたの質問を読むと、あなたの意味の考えは、前者、つまり意味というのは、それを意味づける人の心の中にあり、心次第で、意味があったり、意味がなかったりする、と言っているように見えます。
つまり、意味の源泉は人間の心の中に、主観にある、と言っているように聞こえます。
もし、意味が主観にある、人の心の中にある、としたら、同じ対象でも、人によって意味があったり、意味がなかったりすることになり、意味はそれを言う人に相対的ということになります。
でも、辞書を読めば分かるように言語には誰にとっても共通の意味というものがあり、規範というものがあります。
意味には共通の客観的な規範というものがあるから、人と人はコミニケーションできるので、もし、意味は主観的ということになると、コミニケーションができなくなります。
哲学、思想なら、人によってそれぞれ、相対的ということもあるでしょうが、しかし、意味については、人それぞれ相対的と言ってはいけないのではないでしょうか?

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