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石田三成は徳川家康のどこが気に入らなかったのでしょうか?

kok********さん

2018/5/1317:02:10

石田三成は徳川家康のどこが気に入らなかったのでしょうか?

豊臣秀吉の死後、政権運営は五大老五奉行の合議制の形をとって行うようにされました。しかし実際には、五大老といってもそれぞれの大名の大きさや実力はバラバラなため、自然とその中で影響力の強い人間が浮かび上がってくる状態だったと思われます。当時の人々も、建前は秀頼の補佐、実質的にはポスト秀吉の椅子に座り、諸大名をまとめる重石となる人が必要だと感じていたのではないかと思います。

候補に挙がっていたのは前田利家と徳川家康だったと思いますが、利家が亡き後は家康しかいなくなりました。徳川家康には当時はわからなかったのかもしれませんが、歴史の結果としてはきちんと国を治める能力がありました。

石田三成は徳川家康のどういうところが天下を任せるのに不適格だと判断したのでしょうか。天下を奪われるという考えもあったかもしれませんが、家康もまた高齢だったため、暫定的に任せて、いずれは秀頼がまた天下人に、ということはできなかったのでしょうか。

歴史に詳しい方、ご意見をお願いします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

gpx********さん

2018/5/1420:20:26

光成準治氏がテーマに沿った論考を書かれているので、ご参考までに。

「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのかという問いに対する答えは、イエス・アンド・ノーと言えるであろう。家康と三成の間に私的な交流があった形跡はなく、その意味ではイエスである。しかし、そのような二人の没交渉は、家康を牽制しようとする秀吉の意図に基づくものであり、両者間に個人的な感情の対立があったわけではない。その意味では仲が悪いという表現は相応しくなく、ノーである。

秀吉によって創り出された対抗関係であるが、秀吉が生きている間、家康と三成が大きく対立することはなかった。両者の間で秀吉がバランスをとりつつ政権運営したからである。しかしながら、長期間の対抗関係の継続によって、三成の心中には家康を潜在的な敵と見なす秀吉の底意が刻み込まれていった。ゆえに、秀吉が愛児秀頼の行末を案じつつこの世を去ると、三成は家康に対抗して豊臣政権を守る行動を開始したのである。一旦は挫折しながらも、執念深く家康を打倒しようとした。そのような三成の行動は、長期間にわたって秀吉によって創り出された対立構造が、秀吉の死によって噴出した結果であろう。」

>石田三成は徳川家康のどこが気に入らなかったのでしょうか
>石田三成は徳川家康のどういうところが天下を任せるのに不適格だと判断したのでしょうか

つまり、光成氏の意見に従えば、三成は秀吉の意を汲んでいたわけです。
秀吉は家康を信頼してはいたものの、それは100%ではなく、本能的に家康の野心を感じていた。その警戒心を、三成が引き継いだということではないでしょうか。
三成独自のものというよりは、秀吉の遺志に近いもののように思います。

質問した人からのコメント

2018/5/20 06:39:02

回答ありがとうございます。
三成は秀吉が家康を警戒していたことは、傍にいたこともあり十分知っていたでしょうね。しかし、その警戒対象の家康に行うことが、三成と秀吉とでは違っていたと思います。また質問させていただきたいと思います。
他の回答してくださった方々もありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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dok********さん

2018/5/1722:53:31

暫定的と言っても1度家康に天下を渡したら2度と豊臣には天下は戻らないと思います。
それと三成は豊臣以外の天下を認める事などできません。
石田三成は徳川の天下が不適格と考えてたのではなく、とにかく豊臣政権の継続だけを願ってました。
家康の実力を見れば徳川が天下を治められる事など三成は分かってたと思います。
家康は治安が悪く荒れ果てた江戸の町を発展させた実績も三成は検地を通して見てるだけに家康の存在は驚異に感じたと思います。
人の心を読むのが苦手な三成も家康の野望だけは早くから見抜いてました。
家康が気に入らないと言うより、家康の存在が豊臣政権にとって邪魔に感じたと思います。
その危機感が嫌悪感に変わったと見ます。
例を挙げると方広寺の建築現場で三成が杖を落とし、家康に拾ってもらっても礼を言わずに立ち去り、徳川方の家臣から反感を買ったエピソードもあります。
この頃から二人の対決は始まってましたね。

axy********さん

2018/5/1512:16:35

石田三成が気に入らなかったのは石田三成襲撃事件を起こした加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎らです。

慶長の役:蔚山城の戦い
慶長2年(1597年)蔚山を占領した日本軍は蔚山倭城の築城し加藤清正を総大将に約1万が城に入る。明・朝鮮軍は、加藤清正を日本軍中で最強の武将とみなし、蔚山を攻め清正を捕らえたなら日本軍を瓦解できると考え楊鎬、麻貴らの明軍および、権慄率いる朝鮮軍、合わせて約6万の兵で蔚山倭城を襲撃する。本丸東に駐屯していた浅野幸長軍と南側の太田一吉軍が襲われ擺寨が偽りの退却をし、浅野勢は460余の戦死者を出し太田一吉も負傷するほどの激戦の後、蔚山城内に撤退して籠城戦が始まる。明・朝鮮軍は蔚山内城を包囲し日本軍を攻撃した。
蔚山の加藤清正や浅野幸長の窮地を知った西生浦に駐屯していた黒田長政、蜂須賀家政、毛利秀元(吉川広家)、加藤嘉明、生駒一正、脇坂安治ら総勢約13,000は石田三成の軍目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直の西生浦を離れるなと言う命令を無視して蔚山倭城へ救援に向かう。
日本赴援軍は毛利秀元軍の吉川広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて立花宗茂は吉川隊と連携して側面から追撃し、黒田長政、小早川秀秋ら日本軍総勢が一度に突撃し明軍の敗走が始まる。日本軍は敗走する明・朝鮮軍を追撃して。明軍の戦死者は3千、4千とも云われ大勝利となった。
蔚山攻防戦の後、毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は蔚山・順天・梁山の三城放棄する戦線縮小案を豊臣秀吉に上申しているが秀吉の不興を蒙り却下される。この合戦について、福原長堯ら軍目付達は明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」と豊臣秀吉に報告した。このため両者は秀吉の不興を蒙り、とくに蜂須賀家政は三城放棄案の件と併せて秀吉の逆鱗に触れ、領国への逼塞が命じられた。他に目付の早川長政・竹中隆重・毛利高政も秀吉の不興を蒙り領国への逼塞が命じられた。一方、軍目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直には報告の褒美として豊後国内に新地が与えられ、上司の石田三成も筑後国・筑前国における蔵入地の代官に三成を任じ筑前国名島城を与えた。
この蔚山城救援諸将に対する処分は後の慶長4年(1599年)に石田三成襲撃事件後に三成が失脚すると、徳川家康は五大老会議を招集し、「蔚山城救援諸将に落ち度がなかったことは歴然としている」との裁定を下し、処分の撤回と名誉回復の処置がとられる。翌慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると加藤清正、黒田長政、蜂須賀家政、浅野幸長らは東軍につくことになる。他に小早川秀秋、吉川広家、生駒一正、脇坂安治らの関ケ原の戦いでの寝返りを起こした。

日本のテレビや映画では韓国に忖度して朝鮮征伐はタブーとされているので多くの日本人は知らない。

shi********さん

2018/5/1423:57:44

おっしゃられている「徳川に暫定的に任せて、いずれは秀頼がまた天下人」というのは、家康についた多くの豊臣恩顧が考えた楽観論。あるいは建前です。
天下が回り物であるということは秀吉が証明しており、家康の天下奪りもまた秀吉の手法を参考にしたものです。多くの大名は、経験則から天下はまた転がるということにうすうす気がづいており、勝ち馬に乗りたがっていたのです。

一方の三成はというと豊臣政権という枠を守ることに固執した人物です。ずっと秀吉の側についていたので、同様の手法を使う家康の野望もよく理解していたことでしょう。いずれは主家を出しぬいて結局は自前の政権を作るのです。その時、豊臣家は、秀頼はどう処遇されるか。最悪暗殺。よくて2〜3国の大名か公家といったところでしょうが、それでも三成からすれば到底承服できないでしょう。

f_r********さん

2018/5/1423:22:44

三成には豊臣政権は自分と太閤殿下が作り上げたという強烈な自負がありました。ところが、秀吉が死んで幼い秀頼が後継者となると実権は次第に大老筆頭で秀吉から天下の仕置きを委任されている家康へと移っていくことになります。問題はそれだけでなく、年齢からいって家康が三成より先にあの世へ旅立つのはほぼ確実ですが、もし秀頼と千姫の間に男子が生まれたら徳川家は豊家の外戚となってしまいかつての藤原氏のように天下の実権を掌握してしまうでしょう。そうなると真っ先に排除されるのは三成です。
さらに豊臣政権の構造的欠陥があります。秀吉が一代で築き上げた豊臣政権には藩屏となる一族や譜代家臣が極端に少ないのです。下層の出身である秀吉には武将や官僚となりうる親戚は弟の秀長や姉の子ら以外には血の繋がりのない妻方の浅野家や木下家しかありません。あとは他家からの養子です。秀吉が大名らに豊臣姓や羽柴姓を授与したのは疑似的であっても豊臣一門を充実させる必要があったからです。家康も秀吉生前は羽柴家康だったようです。当然、一からスタートした豊臣家に先祖代々から家臣があろうはずがありません。子飼いの武将らは秀吉や北政所には絶対な忠誠を誓ってもその子供に同じような忠義心を抱けるかとなるとこれは歴史が証明しています。秀吉が織田信長に忠誠を誓っても織田家そのものにはなんら忠義立てしていなかったの同様、福島正則や池田輝政らが豊臣家に対して命がけの忠義を貫こうとしなかったのは父祖の代からのというつながりがなかったからでしょう。そんな豊臣政権は強固な中央集権を構築できたのは三成らの優秀なスタッフがいたこともありますがひとえに秀吉一人の才覚によるものです。その秀吉が死ねば政権が動揺するのは当然でしかも後継者の秀頼は幼くてとても統制できる状態ではありません。さらに悪いことに日明戦争の最中という最悪な時期での死去です。秀吉が死去した時、それをしばらく隠蔽するために遺骸を確か増田長盛だったかと思いますが背中におぶって運んでいます。それを見た北政所が嘆いたという逸話があります。奉行らは秀吉の死が招く混乱を憂慮していたのです。多大な労苦と犠牲を払った朝鮮出兵が何の成果もなく終わることがほぼ確実となった状態での帰国となれば諸将の不満は政情不安を招くことは明らかで誰も何の混乱もなく沈静化できるとは思っていなかったでしょう。そうなると徳川家の勢力は豊家安泰をはかる三成にとっては潜在的な脅威となります。三成が秀吉死去から反家康行動に出たのも家康の野心を疑ったのではなく徳川家の存在自体を危険と判断したからです。

nan********さん

2018/5/1421:50:28

秀吉存命中は秀吉の周りで好き勝手できたのに
家康が中心になってしまうと三成の出る幕がなくなってくるので不都合だったのでは

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