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拉致問題、確かに実行犯の北朝鮮が悪いのは当然だけど、守れない日本にもここまで...

kon********さん

2018/6/2221:33:25

拉致問題、確かに実行犯の北朝鮮が悪いのは当然だけど、守れない日本にもここまで来ると責任の一端を担ってもらわないといけないと思う。辻元みたいな反日売国奴を国会議員に押し上げた日本人も犯罪の片棒を担いだと

思いませんか?

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dan********さん

2018/6/2309:22:12

確かに
それはまあそうなんだろうな
辻本とか死んだけど土井たか子とか
ああいうのを連れてきたのがまずかったよな

  • 質問者

    kon********さん

    2018/6/2309:23:33

    逆だよ。土井たか子が死んで、辻元は存命してる。

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gak********さん

2018/6/2308:33:09

あなたの言い分は
「騙すより騙される方が悪い」
と考える韓国人そっくりだ。

lba********さん

2018/6/2308:30:21

●2018.1.7 11:39更新
「私の拉致取材 40年目の検証」7日から新連載
http://www.sankei.com/economy/news/180107/prl1801070004-n1.html
産経新聞は、北朝鮮による日本人拉致事件をテーマにした新連載「私の拉致取材 40年目の検証」を1月7日(日)から開始します。
福井、新潟、鹿児島のアベック3組や横田めぐみさんらの失跡を北朝鮮による拉致事件としてあぶり出した元産経新聞社会部記者、阿部雅美氏が執筆します。
取材開始から40年目の節目となる年に長期連載となるノンフィクションです。
「アベック連続蒸発」
の記事が初めて産経新聞(当時の題字は「サンケイ新聞」)1面に掲載されたのは、今から38年前の1980(昭和55)年1月7日でした。
のちに新聞協会賞を受賞するきっかけとなった画期的なスクープでしたが、当時、他のマスメディアは完全に黙殺し、その後長きにわたり日本国内で拉致事件への関心が広がることはありませんでした。
「どのように事件を取材し、どう報じたのか、あるいは報じなかったのか。
日本社会や政治はその後、拉致問題にどのように向き合ってきたのか」-。
記事掲載前年の79年から社会部記者として取材を始めた阿部氏は、今も手元に残る多くの資料などを見直したことで、当時は見逃されていた真実が見えてきました。
解決の兆しは一向に見えず、事件が風化しつつある今、新連載では阿部氏が問題点を検証していきます。
「私の拉致取材 40年目の検証」
は1月6日(土)で終了の連載
「百年の蹉跌 ロシア革命とプーチン」
のあと、毎週月~土曜(休刊日等を除く)の朝刊オピニオン面で連載されます。
初回の7日はオピニオン面連載の前文として1面に「序」を掲載します。
◆阿部雅美(あべ・まさみ)氏のプロフィル
1948(昭和23)年生まれ。
東京都出身。
72年、産経新聞社入社。
97(平成9)年、
《北朝鮮による日本人拉致事件疑惑 17年を隔てた2件のスクープ 「アベック連続蒸発」-「横田めぐみさん」》
で日本新聞協会賞受賞。

●40年目の検証 私の拉致取材①
2018年1月7日 第1章
◆日本社会はずっと蒸発に気づかずにいた
■夜回り
スマートフォンどころか携帯電話さえ手元になかった昔のことなので、どんな時代だったか、少し説明したい。
1979年(昭和54年)、ダサい、ナウい、キャリア・ウーマンといった言葉が流行り、ウォークマン、ぶら下がり健康器がヒット商品だった。
大人たちまでが夢中になったインベーダーゲームの流行が続いていた。
レコード大賞はジュディ・オングの『魅せられて』。
映画『銀河鉄道999』が観客を集め、『ドラえもん』のテレビ放送が始まった。
プロ野球の広島東洋カープが初めて日本一になり、大学入試の共通一次試験がスタートしたのも、この年だった。
秋の衆院選挙で自民党は過半数に届かず、党史上最大の危機と言われた激しい派閥抗争が起きた。
■繰り返された衝突
朝鮮半島に目を転じる。
朝鮮戦争の休戦後も南北の一触即発の緊張が続き、1960年代後半から1970年代にかけ、互いに首領の暗殺を狙った。
まず1968年1月、銃と手榴弾で武装した北朝鮮の特殊部隊員31人が休戦ラインを突破してソウルに潜入し、大統領官邸青瓦台に迫った。
察知した韓国軍との銃撃戦で29人が射殺された。
報復として韓国は金日成主席暗殺計画を立て、こちらも同人数31人の特殊部隊を創設。
朝鮮半島中西部の無人島、実尾島(シルミド)で極秘の訓練を続けた。
ところが、急速に南北融和が進むと暗殺計画は撤回され、特殊部隊そのものが存在しなかったこととされた。
劣悪な待遇もあり、部隊員たちの不満が爆発。
1971年8月、反乱を起こして島を脱出し、バスを乗っ取って青瓦台へ直訴に向かった。
軍、警察との銃撃戦で20人が死亡した。
映画『シルミド』で、よく知られた話だ。
1974年8月にソウルで起きた在日韓国人・文世光による朴正煕大統領暗殺未遂事件も、北朝鮮の関与が明らかになっている。
その後、南への武装浸透を図る北朝鮮の兵士と韓国軍との間で小規模な衝突が繰り返され、軍事境界線を越える南侵トンネルが見つかったりしたが、概ね小康状態が続いた。
■ダブルスタンダード
日本のマスメディアの朝鮮半島報道は、漢江の奇跡と言われた韓国の高度成長を成し遂げた朴政権の功績面に触れることは少なく、自由主義、民主主義という価値基準に照らして、軍事独裁、圧政と批判し、その打倒を掲げた民主化運動へのシンパシーに満ちていた。
一方で、言論の自由も結社の自由もない北朝鮮に同じ価値基準を適用して、その独裁体制を問題にすることはなかった。
完全なダブルスタンダードだった。
1975年にベトナム戦争でサイゴンが陥落して米国が負けると、この傾向に拍車がかかった。
日朝間では1959年に始まった在日朝鮮人や日本人妻らの北朝鮮への帰還事業が継続していた。
初期は、日本のほぼ全メディアが、この事業を後押しした。
産経も例外ではなかった。
日本社会は、そうした報道を反映して
「地上の楽園」
(注・朝鮮総連=在日本朝鮮人総連合会、北朝鮮を支持する在日朝鮮人で構成する団体=が最初に使ったとされる)
と讃えられた北朝鮮に甘い、偏った空気に、ずっと覆われてきていた。
ただし、偏った、というのは、今だから言えることで、当時は、ごく自然に、疑うことなく、その空気を吸っていた。
今日と違い、北朝鮮の人々の惨状に関する情報は極端に少なく、多くの日本人と同じように私も、北朝鮮に特段の悪い印象を持っていたわけではなかった。
現在、政府が認定している12件17人の北朝鮮による日本人拉致は1977年から密かに始まり、続発していたのだが、日本社会の誰も気付かずにいた。
■政府が認定した日本人拉致被害者(国内)
「年齢は2018年1月7日現在、元号は昭和、☆印印は帰国した被害者、★は未帰国被害者」
★①52年9月19日、石川県で拉致、久米裕さん(92歳・当時52歳)
★②52年10月21日、鳥取県で拉致、松本京子さん、(69歳・当時29歳)
★③52年11月15日、新潟市で拉致、横田めぐみん、(53歳・当時13歳)
★④53年6月頃、拉致場所不明、田口八重子さん、(62歳・当時22歳)
☆⑤53年7月7日、福井県で拉致、地村保志さん、(62歳)
☆⑥53年7月7日、福井県で拉致、地村富貴恵さん、(62歳)
☆⑦53年7月31日、新潟県で拉致、蓮池薫さん、(60歳)
☆⑧53年7月31日、新潟県で拉致、蓮池佑木子さん、(61歳)
☆⑨53年8月12日、新潟県で拉致、曽我ひとみさん、(58歳)
★⑩53年8月12日、新潟県で拉致、曽我ミヨシさん、(86歳・当時46歳)
★⑪53年8月12日、鹿児島県で拉致、市川修一さん、(63歳・当時23歳)
★⑫53年8月12日、鹿児島県で拉致、増元るみ子さん、(64歳・当時24歳)
★⑬55年6月中旬、宮崎県で拉致、原敕晁さん、(81歳・当時43歳)
■海外で拉致された政府認定の被害者
★①53年6月頃、欧州に出国後拉致、田中実さん(68歳・当時28歳)
★②55年5月頃、欧州で拉致、松木薫さん、(64歳・当時26歳)
★③55年5月頃、欧州で拉致、石岡亨さん、(60歳・当時22歳)
★④58年7月頃、欧州で拉致、有本恵子さん、(57歳・当時23歳)

kva********さん

2018/6/2308:27:43

●40年目の検証 私の拉致取材②
2018年1月8日 第1章
◆駆け出し記者が夜回りで聞いた「つぶやき」
産経新聞の場合、当時、記者は地方の支局勤務を経て本社にあがり、様々な部署に割り振られた。
私は群馬・前橋支局を経て東京本社編集局社会部配属となった。
最初は俗に言うサツ回り。
警視庁管内には9(現在は10)の方面本部があり、それぞれの中核警察署に報道各社呉越同舟の記者クラブが置かれていた。
ここを拠点に事件事故だけでなく、いわゆる街ネタも拾う。
私は池袋を中心とする第5方面担当。
一番の思い出は、我が国では初めての
「山下さんちの五つ子ちゃん」
取材だった。
鹿児島の病院で誕生したのだが、間もなく、5方面管内の日本大学板橋病院に4カ月余、入院したのだった。
■”花の警視庁”へ
方面勤務の年季が明けると、事件向きと判断された者は”花の警視庁”に移り、初めて事件記者になる。
私は後に
<ソ連、共産党独裁を放棄へ>
の国際的スクープで日本新聞協会賞を受賞することになる同期入社や、連載
<毛沢東秘録>
で菊池寛賞を受けることになる後輩ら優秀な人材に遅れて、事件記者の仲間入りをした。
警視庁と言えば別称「桜田門」だが、1979年当時、桜田門庁舎は建て替えの最中だった。
西新橋にあった仮庁舎(三井物産館)の報道各社に割り当てられた薄い板壁のボックスと呼ばれる、2階ベッド付きの狭い部屋に、キャップ以下10人ほどの記者が机を並べる。
犯罪の種類によって担当部署が分かれた。
私は刑事部捜査2課(知能犯)・4課(暴力団・総会屋)担当を経て、先輩記者と2人で警備部・公安部を担当していた。
31歳。
経験10年で一人前とされた時代にあって、まだ駆け出しだった。
成田空港は前年の1978年に開港して反対運動は下火に向かい、初の日本開催となった6月の東京サミット(先進国首脳会議)も無事に閉会した。
警備・公安の懸案事件は特になかったが、そんな時でも夜間に関係者の家を訪ねる夜回り(俗に言う夜討ち)をするのが、事件記者の習性だった。
警視庁の刑事と限らない。
警察庁、公安調査庁(公庁)、内閣調査室(内調)・・・。
夜回り先は色々だったが公安関係者の口は職務の性質上、一様に堅かった。
昼間、勤務時間に話を聞けばいいではないか、と思われるかもしれないが、そうはいかない。
刑事たちが詰める部屋の入り口にはカーテンが下がり、記者たちも立ち入り禁止だった。
■公安警察は特殊な世界
官舎に住む幹部たちは別として、そもそも刑事の名前や住所を知ること自体が難しい。
同じ警視庁でも、その前に担当した刑事部とは、まるで違った。
公安警察はベールに厚く包まれた特殊な世界だった。
法律上の守秘義務がある人から捜査上の秘密を聞き出す。
因果な商売だ。
家を訪ねても居留守を使われ、会える確率は2~3割。
よほどの幸運がなければ、かろうじて禅問答のような会話を交わすことさえ容易ではない。
室内に招き入れてもらったり、囲碁に興じたりすることなど年に何度もなかった。
ライバル社に抜かれる(スクープされる)懸念もあって、毎晩、深夜まで夜回りをした。
当時の事件記者なら誰でもそうだったろうが、休みらしい休みを取った記憶がない。
こうした非生産的で不健康な仕事をバカらしく思ったら、とても事件記者はやっていられない。
大きなスクープも地道な仕事の積み重ねから生まれる。
やりがいのある仕事だった。
ただし、私の場合は、やり尽くした感もあり、もう2度とやりたくはなかった。
そんな時、とりとめのないやり取りの中で、つぶやきを聞いた。
「日本海の方で変な事が起きている」
変な事って、何ですか、とは問い返さなかった。
「知るか!」
と、怒鳴り飛ばされるのがオチだったからだ。
変に思われるかもしれないが、実際、後述するように、その夜から2カ月ほどたって、その人に電話口の向こうから
「知るか!」
と一喝されることになる。

●40年目の検証 私の拉致取材③
2018年1月9日 第1章
◆図書館で見つけた海辺の小さな未遂事件
日本海の方で起きている、という「変な事」が、何なのか。
見当もつかなかった。
思い当たることは、なかった。
ニュースに必要とされる5W1H(When=いつ、Where=どこで、Who=誰が、What=何をした、Why=なぜ、how=どのように)の要素のうち、分かっているのは「Where」、それも
「日本海の方」
だけでは雲を掴むような話だった。
もし、他に事件でも抱えている忙しい時期であったならば、そのまま放っておいただろうが、警備・公安担当記者は、たまたま暇だった。
特に昼間は手持無沙汰で、喫茶店や映画館で仮眠しながら時間を潰すこともあった。
■4人組が男女襲う
地方紙でも覗いてみるか。
そう思い立ったのは、ごく軽い気持ちからだった。
有り難いことに東京では国立国会図書館と日比谷公園内にあった都立図書館が全国の地方紙を数年分所蔵していた。
果たして
「変な事」
が地方紙で報じられているのかどうか。
何のアテもなかったが、他に術もなく、昼下がりの散歩がてら警視庁仮庁舎から日比谷の図書館へ何日か通った。
たとえ
「変な事」
が見つからなくても、誰に叱られるわけでもなかった。
日本海と一口に言っても、海岸線は長い。
青森の東奥日報を手始めに北から順に沿岸の県紙を閲覧した。
今のようなデジタルでの記事検索システムなどはないから、とじ込み紙面の社会面をめくった。
秋田魁、山形新聞、新潟日報、北日本新聞、北國新聞、福井新聞・・・。
どこの県でも事件、事故の記事は毎日それなりにあるが、世の中に
「変な事」
など、そうはない。
結局、コレというものは見つからず、徒労に終わりかけたが、目に留まった記事が1つだけあった。
1年以上も前、1978年8月16日付の北日本新聞(富山)朝刊社会面。
前日の終戦の日に東京・九段の日本武道館で行われた全国戦没者追悼式の模様を伝えるトップ記事の横に、その5段記事はあった。
<高岡の海岸 4人組が若い男女襲う 手錠かけ寝袋覆う>
リードは、こうある。
<15日夕、海水浴をしたあと高岡市の松太枝浜と氷見市島尾海岸の中間の松林を散歩していた若い男女に、4人組の男たちが襲いかかり、手におもちゃの手錠をかけたり、頭から寝袋をかぶせて身動きできないようにさせ、そのまま逃げ去った。
被害に遭った2人は、間もなく付近の民家に助けを求め、保護されたが、高岡署では悪質な
「逮捕監禁・暴行傷害事件」
とみて捜査している>
■聞いたことのない手口
手首にかすり傷を負った被害者の男性(27)と女性(20)はAさん、B子さんの仮名だった。記事を引用させていただく。
<4人組の犯人は、Aさんの両手におもちゃの手錠をかけ、さらにゴム製のさるぐつわのようなものをかぶせ、(中略)濃いグリーン色の寝袋らしいものを頭からすっぽりかぶせた。
また、B子さんの両手をなわで後ろ手にしばりあげ寝袋をかぶせ、男たちはそのまま逃げた>
<Aさんらの話によると、犯人4人は、いずれも35歳前後で1人は白色のはだ着にステテコ姿、1人はめがねをかけ、頭髪はパーマネント、あとの2人は青色のズックをはいていた>
人を生きたまま袋に押し込む。
手錠をかける。
あまり聞いたことのない手口だった。
犯人たちが
『そのまま逃げた』
というくだりは、一体、どういうことなのか。
さっぱり分からない。
夜回り先で聞いた
「変な事」
とは違う気もしたが、妙な事件であることは確かだった。
新聞記者になって8年、様々な事件を取材してきてはいたが、首をかしげるようなことは、めったにない。
そもそも、4人もの男たちは袋詰めにした若い男女をどうしようとしたのか。
興味をそそられた。
拉致事件の取材は、ここから始まった。
いくつかの偶然に出会うことになるのだが、この記事との出会いが、その最初だった。
あの日からの過ぎし40年を、何と表現すればいいのか、適当な言葉が見つからない。
色々なことが、あり過ぎた。

jdb********さん

2018/6/2308:24:58

●40年目の検証 私の拉致取材④
2018年1月10日 第2章
◆東京から来るような事件じゃないですよ
■富山県警
北日本新聞で見つけた
「逮捕監禁・暴行傷害事件」
を調べに富山県へ向かった。
北陸新幹線や上越新幹線は、まだ開業していなかった。
何事もなければ、それはそれでいい。
通常の刑事事件と分かれば、公安担当記事の出番ではない。
誰に命じられたわけでもない。
ショルダーバッグにノートとカメラを放り込んで、初めての土地への気楽な出張だった。
北朝鮮という国のことなど頭の片隅にもなかった。
拉致報道に政治的意図など微塵もなかったことが、お分かりいただけると思う。
産経新聞は公安警察とタッグを組んで北朝鮮を狙い撃ちにした、といった
”分かりやすい解説”
が今なお一部にまかり通っている。
笑止のウソだ。
以下、
「逮捕監禁・暴行傷害事件」
の取材経過を少し長く書くのは、この事件が決定的に重要だからだ。
この事件がなければ、拉致報道はしなかった、できなかった、とさえ思う。
言い換えれば、拉致を未遂に終わらせてしまい、犯行グループが目撃されたり、現場に遺留品を多数残したりしたことは、犯人側にとって重大なミスだった。
未遂との因果関係は分からないが、この事件を最後にアベック拉致は起きていない。
■いきなり本部長室へ
事件現場を管轄する高岡署へ向かう前に富山県警本部に立ち寄り、本部長室を訪ねた。
なぜ、いきなり本部長なのか、不思議に思う向きもあるだろう。
本部長は、いわゆるキャリア組の国家公務員、彼らに共通の関心事である警察庁の人事情報を東京で事前に仕入れ、それを手土産にアポなしでトップに直当たりするーいつの間にか身に着いた取材方法の1つだった。
不在ならば諦めればいい、それだけのことだ。
「静かなもんですよ。
東京からわざわざ取材に来るような事件なんて、何もないですよ」
窓から立山連峰が望めたと記憶する部屋で、記者の来訪をいぶかる本部長に北日本新聞で読んだ
「逮捕監禁・暴行傷害事件」
の話を切り出した。
「そんな事件、確かにありましたな。
覚えていますよ。
単なるチンピラなどの事件ではないでしょうが、わざわざ東京から取材に来るような事件じゃないですよ。
細かなことは・・・」
富山に限らず、県下で日々発生している小さな事件の詳細までは知らない。
「東京からわざわざー」
を繰り返した。
おとぼけではない証拠に、その場で担当部署へ電話をかけてくれた。
「逮捕監禁・暴行傷害事件」
は、刑事部の担当だった。
本部長は
「わざわざ東京から来た」
記者に、差し支えない範囲で話してやるよう、部下の刑事に指示してくれた。
発生から1年余が経過していた。
捜査は行き詰まり、事実上、迷宮入りしていた。
そして何より、当初から地元の記者たちさえ興味を示さない、ちっぽけな事件だったから、
「差し支えない範囲」
は広く、幸いした。
■多様で異様な遺留品
全国版に載せるような事件ではない。
発生時の新聞の扱いを見る。
読売新聞は富山版のベタ(1段)記事で
<アベック襲われる スキ見て通報、無事>
とある。
朝日新聞は1日遅れの1978年8月17日付の富山版に3段で
<散歩の男女襲われる 高岡の海水浴場 両手縛り袋詰め>
とあった。
内容は先に(9日付の本欄で)紹介した北日本新聞の記事と変わらないが、犯行動機を警察見解として
『悪質ないやがらせか、乱暴を目的とした犯行とみている』
としていた。
北日本新聞にも
<有力手掛かりなし>
の続報で
『犯人たちは最初から女性に乱暴することを計画』
とあった。
土地勘のある者たちによる犯行か、素行不良者をリストアップといった、この種の事件報道にお決まりの続報が地元紙にはあったが、それも間もなく途絶えた。
外国絡みの犯行を匂わせる記事は、どこにもなかった。
県警本部での刑事の話で最も興味を持ったのは、多様で異様な遺留品だった。
発生時の各紙には、おもちゃの手錠、寝袋、サルグツワのようなもの、縄とあるが、実際には2人を別々に押し込めたモスグリーンの布袋、紐、タオル、手錠、その連結金具、サルグツワ、サンバイザー、バスタオルなど8種類ほどあった。

●40年目の検証 私の拉致取材⑤
2018年1月11日 第2章
◆「工業の遅れた国」で作られた数々の遺留品
「これだけのブツ(遺留品)があれば、いけると思ったんだけどねえ。
品触れの手配書も全国にまいたけど・・・」
いける、とは犯人にたどり着ける、という意味だ。
品触れ、とは警察用語で、盗品の可能性のある品物などの特徴を質店や古物商などに触れ示すことだ。
「まるで、ダメだった」
富山県警の本部長も刑事も、同じことを言った。
■「外事ですかね」
1年間、地道に続けた遺留品追跡捜査の結果、タオル1本だけは大阪府内で製造され、富山県内でも売られていたことが突きとめられたが、他の品々は奇妙な壁に突き当たったという。
販売ルートや製造元が絞り切れなかったのではない。
日本国内では製造も販売もされていない。
輸入品にも該当はなかった。
つまり合法的には日本には存在するはずのない品ばかりだったのだ。
例えば金属製の手錠。
おもちゃではなかった。
精巧な本物なのに国内で使われているどの手錠とも異なる。
柔道の黒帯のように見えた紐も、そうではなかった。
アベックを押し込んだ、たばこの火によるとみられる穴がいくつも開いたモスグリーンの布袋は寝袋ではなかった。
戦時中に米軍が死体運搬に使ったものではないか、落下傘に使われる布ではないか、という見方もあったが、違った。
「どれも工業のひどく遅れた国で作られた粗悪品だった」
刑事は、そう言った。
奇怪だ。
普通の犯罪ではない、と感じ始めた。
「外事ですかね」
まだ、何の根拠も持たなかった。
■「一言も言っていない」
工業のひどく遅れた国、という言葉からの単純な連想に過ぎないが、その問いに刑事は頷かなかった。
外事とは外国諜報機関のスパイ活動を指す警察用語だ。
「外事?そんなこと(記者から)聞かれたこと、1度もないよ。
まあ、可能性の1つとしてはあるだろうが、否定材料も多いんでね。
だいたい(犯行時間が)明るすぎる。
場所が悪い。
釣り人に、犯人の方から声をかけている。
日本語しか話していないー」
今さら記事になることなどない、と思っているからだろうか、刑事の話には地元の紙面には載っていないことも少なくなかった。
「それにね、動機が、全く分からない。
見当がつかない。
一体、何をしようとしたのか。
こんな外事事件、あると思うかね」
捜査資料の中にあった遺留品の写真も見せてもらえた。
警視庁では考えられない親切さに助けられた。
別れ際、実直そうなベテラン刑事は念を押すように言った。
40年近く経っても、耳に残る。
「確かに変な事件だけど、外事だなんて、ウチじゃあ一言も言ってないからね」

第3章
◆未遂事件の現場
(旧)北陸本線から分岐して高岡市と氷見市を結ぶローカル鉄道氷見線は富山湾に沿って走る。
氷見の手前に島尾という小さな駅がある。
降り立って東へ歩くと、潮の香りがしてきた。
5分ほどで雨晴海岸だ。
源義経が奥州へ落ちのびる途中、にわか雨がやむのを待ったと伝えられる岩があり、地名の由来になっている。
地元では島尾海岸とも通称していた。
ここが
「逮捕監禁・暴行傷害事件」
の現場だった。
眼前に日本海の海原が広がる。
白砂青松の美しい海岸線が長く延び、富山湾越しに立山連峰が望める景勝地だ。
遠く冠雪した3000㍍級の山々を眺めながら海水浴が楽しめる、日本では珍しい浜辺と聞いていたが、私が取材した日は、あいにくの曇天で、防風の松林が続く秋の浜に人影はなかった。
民家が点在する。
当てずっぽうに、海に一番近い家を訪ねた。
そこが、手錠をかけられ、サルグツワをされ、頭からすっぽり布袋をかぶせられたAさんがウサギ跳びで助けを求めたお宅だった。
1年以上も前の出来事を、主人ははっきり覚えていた。

iba********さん

2018/6/2308:22:16

●40年目の検証 私の拉致取材⑥
2018年1月12日 第3章
◆「犯人たちは日本人じゃない感じだった」
■「オバQみたいだった」
「ちょうど盆だった。
夜7時前でした。
次男の嫁が風呂から上がった時、風呂場の戸にドンドンと体当たりするような音がしたんです。
驚いた嫁が外へ出たら、袋の中から、助けてくれ、と。
私も外へ出ると、何というか、袋に詰められた人が立っていて、そう、まるで漫画のオバQ(オバケのQ太郎)みたいだった。
あんまり奇妙なので、一瞬、噴き出したくらい変な格好だった。
何事かと思いましたよ。
袋を脱がしてやると、顔に妙なもの(サルグツワ)をつけていて
『助けてくれ。彼女も襲われた。捜しに行く』
って言う。
ウチの次男と2人で浜へ行ったけど、(女性は)見つからなかった」
(当時の取材ノートから)
4人組に襲われたAさんとB子さん。
Aさんが助けを求めた民家の主人は、オバQみたい、と酒屋のチラシの裏に絵を描いてくれた。
取材ノートに、その絵は挟まっている。
B子さんは、タオルでサルグツワをされ、後ろ手に紐で結わかれていた。
袋詰めにされた後、犯人たちはカムフラージュのためか、松の枯れ枝を袋にかけたという。
しばらくして周囲に犯行グループの気配がしなくなったように感じたB子さんは、自力で袋から脱出し、線路の向こう側の民家へ助けを求めて無事だった。
110番すると、すぐにパトカーが5台も来たという。
■ステテコ姿で日本語
「後から分かったことですが、実は、夕方5時半から6時にかけ、ウチの家族も事件があった浜で遊んでいて、犯人たちを見たんです。
ここは海水浴場の中間で、土地の者しか来ないんですが、その時は散歩をする水着姿のアベックと、4~5人の男たちは白いシャツにステテコ姿。
浜をウロウロしていた。
地元の者は、そんな格好はしない。
なんか、日本人じゃない感じだったって言うです」(同)
周辺取材をすると、富山県警本部で聞いた通り、事件前、キス釣りをしていた人が、犯人グループの1人から日本語で話しかけられていたことが確認できた。
「釣れますか?」
日本人じゃない感じの犯行グループには、日本語のできる者がいたことになるが、そのこと自体は、むしろ自然に思えた。
犯人たちが、どこから集まってきたのか、分からないが、多少とも日本語が話せる者がいなければ、こんな場所まで怪しまれずに来て、犯行に及ぶことは難しいのではないか。
そう思った。
ただ、犯行前の現場で犯人が自分の方から釣り人に声をかけていたことには、私も県警の刑事同様、首をかしげた。
外事事件であろうと、普通、犯人は、こんなことはしないだろう。
「大胆なのか、杜撰なのか、訳が分からない」
と高岡署の刑事は言った。
先手を打って日本語で話しかけることで、怪しまれずに済む、日本人グル-プの犯行と見せかけられる、という深謀遠慮と考えることもできたが、分からない。
遺留品だけではなく、犯行現場での犯人たちの服装も行動も、普通ではなかった。
犯人たちが、どうして日本人じゃない感じ、と言えるのか。
「目撃した家族が言うには、全体の感じから、ですよ。分かりますよね、何となく」
と主人は言った。
何となく、分かる気はした。
いったん東京に戻り、元赤坂の日本ゴム協会・ゴム工業技術員会を訪ねた。
遺留品の中で一番気になったゴム製のサルグツワについて、もっと知りたかったからだ。
筒をくり抜いた不気味な形状で、口にあたる部分に呼吸ができるように穴が開き、両耳も塞げる。
こんな異形のサルグツワは見たことも聞いたこともなかった。
「富山のサルグツワ?
ああ、あの変なヤツですね。
うちで鑑定しましたよ。
天然ゴムの手製です。
使われているゴムは日本にない粗悪なものです。
輸入?日本は、あんなゴム、輸入なんかしませんよ。
工業のひどく遅れた国にしかないでしょう」
ここでも
「工業のひどく遅れた国」
だった。
どこですか、との問いに
「断定はしませんが、ご想像の通りでしょう」
と言う。
私は、ある国を思い描き始めた。

●40年目の検証 私の拉致取材⑦
2018年1月13日 第4章
◆「静かにしろ」と「静かにしなさい」の違い
■被害者証言
富山にUターンすると、危うく魔の手から逃れて助かった高岡市内の被害者宅を探した。
何とか名字を聞き込み、電話帳をめくると同姓が3軒あった。
当時の取材ノートに番号が並んでいる。
順にダイヤルを回し、家人の応対ぶりから見当をつけた。
記者の基本中の基本だが、それだけでも結構な手間がかかる。
■「日本人でないような」
犯人たちの人相・風体・犯行の状況を一番知るのは襲われた当人たちだ。
事件当時、2人は婚約中だった。
あの日、海岸に近いホテル「潮騒」で初めての顔合わせをし、和やかに歓談した両家の親族たちが、気を利かせて若いカップルだけを浜に残して散会した。
事件は、海水浴を楽しんだ2人が、防風林近くに止めておいた乗用車へ戻ろうとした時に起きた。
2人に会って話を聞くしかない。
すでに所帯を構えていたが、1年過ぎても得体の知れない恐怖は消えていなかった。
無理もない。
誰が、何の目的で、自分たちをどうしようとしたのか。
皆目、分からないままなのだ。
再び襲われるのではないか。
怖くて、とても取材に応じられないという2人に代わり、両親が若夫婦から聞いた話をしてくれた。
犯行グル-プを絞り込む上で、1つ1つが貴重な証言だった。
「犯人たちは日本人ではないようでした」
目撃者の話と一致する。
最も大事なことだった。
なぜ、日本人ではないように見えたのか。
「全体の感じ、だそうです」
海辺の家と同じ答えが返ってきた。
「赤胴色に日焼けして、たくましそうだった。
役割分担しているようで手際が良く、訓練されているようだった」
組織的な犯罪をうかがわせる。
犯人たちは袋詰めにした2人を担いで松林へ運び、30㍍も離れた所に別々に転がした。
「(犯人たちは)無言だったそうです。
話した言葉は(B子さんに)、たった一言だけ。
『静かにしなさい』
と言ったそうです。
日本語です。
体を触ったりすることは、全くなかった」
同じ命令形であっても、
「静かにしなさい」
は乱暴な手口に似あわない。
地元の新聞には
「静かにしろ。騒ぐと殺すぞ」
と脅したとあった。
それが、こうした場面での日本の定番セリフだ。
「?『静かにしなさい』、ですか。『静かにしろ』、じゃないですか」
「いえ、『静かにしなさい』、の一言だそうです」
新聞記者は一応、言葉を扱う職業だ。
どうでもいいことかもしれなかったが、犯行に似つかわしくない丁寧な言い回しが、その後、ずっと頭の隅に引っかかった。
合点がいったのは、それから20年以上も後のことだった。
ー海岸で近づいてきた犯人が日本語で
「すいません、たばこの火を貸してもらえませんか」
と話しかけ、いきなり顔を殴ってから
「静かにしなさい」
と言ったー。
新潟事件の被害者、蓮池薫氏(60)が帰国後に、そう語った。
同じだ。
膨れ上がるほど強く顔を殴っておきながら、
「静かにしなさい」
は、普通ではない。
日本語を話すことと、そのニュアンスも含めて使いこなすことは別なのだろう。
■犬の鳴き声で逃走
高岡市でのAさんの両親への取材は続いた。
「(2人が転がされた)松林の道を犬を連れて散歩する人がいたようだった。
犬の鳴き声がしたら、間もなく犯人たちがいなくなった気配がしたそうです」
犯人たちが、なぜ、男女を放置したまま、すぐに現場からいなくなったのか、東京・日比谷の図書館で
「逮捕監禁・暴行所外事件」
の記事を最初に読んだ時から腑に落ちなかったが、犬のせいだったのだ。
ようやく納得した。
犬を散歩させていた子供の口笛で逃げたという話もあるようだが、ここは当人たちの話を優先する。
「犯人たちは、じっと何かを待っていたようだった」
現場に立つと、車を浜に乗り付け、誰にも気づかれずに袋詰めの2人をさっさと連れ去ることは、ごく簡単に思えた。
一刻も早く犯行現場を離れたいのが、犯人心理ではないのか。
なぜ、そうせずに、何を待っていたのか。
これも普通ではない。

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